2007年10月07日

成増出身・ゆかりのある芸能・有名人

・蛭子能収(えびす よしかず)

漫画家の蛭子能収さんは以前、成増に住まわれていました。

1970年、蛭子さんが23歳で故郷の長崎を少しずつ貯めた7〜8万円を持って
飛び出し上京した時に、初めて住んだ街が成増だったそうです。
成増には3ヶ月程住まわれていたとのこと。

「成増では友人の4畳半一間、風呂無しトイレ共同のアパートに居候をして
暮らし、戸田競艇場での競艇と成増の商店街にあるパチンコ店でのパチンコに
明け暮れてわずか1週間でなけなしの8万円をすってしまい、仕方なく
1日の日給が700円の測量の棒持ちのアルバイトを始めたんです。」

と、蛭子さんは夕刊紙のインタビューで以前に話されていました。

他にも蛭子さんは以前、ご自身の思い出の地を巡るTV番組に出演された時に
成増を訪れ、通っていた定食屋さんやパチンコ店などを巡り、

「当時は、パチンコで勝てば、パチンコ屋の隣の定食屋でおかずを一品多く
頼むことが出来て、出ない時はスーパーで袋のインスタントラーメンを
買って帰ってました。」

「成増から出ている無料送迎バスで戸田競艇場によく通った。」

と話されていました。

2013年にはTV番組『ぴったんこカン・カン』で再び成増を訪れ、
蛭子さんが成増で暮らしていた当時通っていた成増の定食屋 やまだやで
しょうが焼き定食を注文していました。

ebisunarimasu.JPG

番組内で蛭子さんは、

「(戸田)競艇や(成増の)パチンコ屋で勝った時は、
定食屋(やまだや)でちゃんとした晩飯を食べていたんですけど、
負けた時はほぼアンパンとコーヒー牛乳でしたね。」

そして当時煮物を注文して食べていた蛭子さんの顔を覚えている、と言う
やまだやのおかみさんに対し、

「俺、煮物をあんまり食べた事無いんですよね。
他の、(やまだやに来ていた)貧乏な若者と間違っているかも・・・」

等、当時の思い出を語ってらっしゃいました。

『2013年8月16日 ぴったんこカン・カン
(蛭子さんが成増を訪れる部分のみ)』
(成増を訪れる蛭子さんは2:45頃から。)


住まわれていた期間は3ヶ月程だった蛭子さんですが、
今でも蛭子さんにとって成増は思い出の街だそうです。

「最初に来た東京(の街)だったから、何となく、凄い親しみが有りますよ。」

と番組内で語られていました。




・美咲華菜(みざき かな)<不確定>

元女子プロレスラー(JWP)の美咲華菜さんは、
成増に程近い練馬区の旭町で居酒屋を営んでいらっしゃいるそうです。




・ぶるうたす

筋肉漫談で一世を風靡したお笑い芸人のぶるうたすさんは、成増出身です。
成増旭町の居酒屋スナック「宴」というお店の常連さんだそうです。
現在は和光市に在住とのこと。




・町田康(まちだ こう)

芥川賞作家の町田康さんは大阪から上京後、成増に住まわれていました。

町田さんのエッセイなどでも
「邪悪の木」(成増駅北口菅原神社境内にある銀杏の木)
「黒い大仏さま」(東京大仏)
といった成増にゆかりのある作品が多数見受けられます。

ちなみに、上記、成増在住時代の町田康さんの作品は「つるつるの壺」に
収録されています。

つるつるの壺
amazon.co.jp




・坂上二郎

コメディアンの故・坂上二郎さんは、2005年に栃木県那須に転居されるまで、
35年間練馬区の土支田に住まわれていました。

土支田は東上線成増駅から程近いという事も有り、坂上さんが生前、成増で
暮らされていた時には成増駅周辺のお店にも足繁く通われていたそうです。
小島米店、焼肉明洞、Japanese 炭火焼BAR 雅、
などのお店に特に通われていたとのこと。

上記の成増に在るお店については、坂上さんが生前に『ウチくる!?』に
出演された際に上記のお店を行きつけのお店として紹介していました。
小島米店のおにぎりは坂上さんが生前『はなまるマーケット』に出演された時に
おめざとしても紹介していました。

(『ウチくる!?』では焼肉明洞のご主人が2001年の狂牛病・BSE問題の時に
経営不振となり焼肉店をやめる決断をしかけていた時に坂上さんから、
「日本人は良くも悪くも忘れる民族だから、この狂牛病やBSE問題も
いつか忘れてしまう時が来て必ず収まるから絶対に店は続けた方が良い。
これだけ美味しいんだから大丈夫。続けなさい。」
とアドバイスを貰い店を存続させていく事を決めた、とインタビューで
語られていました。この事は坂上さんが亡くなられた際にお店のご主人が
インタビューを受けた時にも、ご主人の口からまた語られていました。)


焼肉明洞には坂上さんとコント55号で相方だった萩本欽一さんも
2012年にTV番組で訪れていました。

『2012年5月19日 欽ちゃんの『ありがとう二郎さん』ツアー』
(成増の焼肉明洞を訪れる萩本さんは26:35頃から。)



上記の番組の中で語られた、坂上さんと萩本さんのコンビ、
コント55号のエピソードとして、コンビの決め事の一つに
「一緒に食事を食べない」という決め事があったそうです。

(コンビ仲が悪くならない為に、お互いに「食事を一緒にするのはよそうね」と
決めていたとのこと。)
(「お互いの事を知れば知るほどコンビ仲が悪くなる」との考えが
2人共一致した為、コント55号は食事はおろか、2人一緒にお茶も飲まない、
会話しない、夢を語らない、と決めていたそうです。)

しかし過去に一度だけ萩本さんが50歳の時に坂上さんと萩本さんが
食事を一緒に食べた事があり、
その日坂上さんは帰宅した後に、萩本さんと食事を一緒に食べた事を
とても嬉しそうな顔で奥様に話されていたそうです。

そしてその後2003年9月に坂上さんが脳梗塞で倒れた後、
療養していた時(冬の季節の時期)に、
その事(萩本さんと食事をした日の坂上さんの顔がとても嬉しそうだった事)を
覚えていた坂上さんの奥様が萩本さんに電話をかけ、

「欽ちゃん、もう一度ご飯を(二郎さんと)食べてくれません?」
とお願いをした事があったそうですが、

(“(相方が病気で倒れた後に相方の奥様からお願いされて)食事をする
というのは(お互いに)芸人として粋≠ナはない。”との考えから、)

「僕は二郎さんとは食事しません。」と答え、そしてその言葉の後に続けて、

豊島園の前で待っている。
観覧車に乗ろう。


と電話の向こうの二郎さんに言ったそうです。
しかし坂上さんは萩本さんのその誘いに対して、

寒いから行かない。

と答えたとのこと。

(ちなみに坂上さんが住まわれていた東京都練馬区土支田から
東京都練馬区向原にあるとしまえん遊園地までは直線距離で4km程。)

そして坂上さんが2010年8月に2度目の脳梗塞で倒れ、
身体を動かす事が出来なくなり入院を余儀なくされていた時の
2011年2月(坂上さんが亡くなられる一月前)には、
坂上さんの奥様が再び萩本さんに電話をかけ、

「欽ちゃんと一度だけ食べた楽しい食事、
それをずーっと(二郎さんは)語ってた。
だから一緒にまた(二郎さんと)ご飯を食べて。
二郎さん元気になるかも知れないから。」

とお願いをし、その時は萩本さんはすぐに
坂上さんが入院している栃木県那須塩原市内の病院に行き、
ベッドで寝ている坂上さんに、

二郎さん。飯食いに行こう。

と話しかけたそうです。
すると坂上さんは2度目の脳梗塞で全く身体が動かせない状態に
なっていたにもかかわらず、

おっ! 行くよ!

と言って立ち上がろうとしたとのこと。

このエピソードは
『2012年5月19日 欽ちゃんの『ありがとう二郎さん』ツアー』の番組の中と
(上記エピソードを話す萩本さんは上の番組の動画の20:50頃から。)、
2013年7月に萩本さんが出演されたTBSのラジオ番組『たまむすび』の
番組の中で萩本さんがご自身で語られていました。

『2013年7月19日 たまむすび
(坂上さんとの食事についてのエピソードを話す萩本さんの部分のみ)』



他にも、坂上さんが生前に出演された2005年前後のTV番組においては、
坂上さんが常連として通っていた成増の焼き鳥居酒屋
(上記のJapanese 炭火焼BAR 雅とは別の店)では、

坂上さんは夕方過ぎから来店して飲み始め、
そして閉店時間になる頃には寝てしまう、というエピソードを
店のご主人と坂上さん、そして坂上さんの次女の亜樹さんの3人で
話されていました。

坂上さんが閉店時間を過ぎて寝ている場合は起こさずに
そのまま店の座敷に寝かせて泊まらせてあげて、
翌日のお昼頃に起きた坂上さんに店のご主人がお昼ご飯を作ってあげて、
坂上さんはそのお昼ご飯を食べた後は店の上にある
ご主人のご自宅のお風呂に入らせて貰い、
そしてまた昼寝をして、開店時間の夕方頃にまた起き出して飲み始める、
という事もあったそうです。

いつもその様な調子で帰りが遅くなり、時には店に泊まってしまうお父様を
次女の亜樹さんはよく迎えに行かれていたとのこと。

この焼き鳥居酒屋のご主人の御一家と坂上さん御一家は
家族ぐるみのお付き合いがあったそうです。


土支田・成増が地元だった坂上さんはかつてコント55号のコントの中で
自分の役名を、

「上板橋成増」、「下板橋某」、

と名付けたりもしていました。


練馬の土支田に住まわれていた坂上さんについては、
石橋貴明さんが以前ラジオ番組の中で、

「ウチのスタッフがね、練馬の高松ってトコに住んでんですけど、
成増の近所なんですよね。
ほんで、練馬って坂上二郎さんが、土支田ってまた近い所に
住んでんですけど、土支田ってのがまた成増の裏っ側で近いんですよ。
本当にね、あそこら辺練馬成増辺りは何か住む人間に特色があるっつーか、
なんつーか「集まっちゃった」みたいな感じのトコなんですけどね。(笑)
またよりにもよって。(笑) という。」

と、話されていました。


<略歴>
1934年(昭和9年)、鹿児島県鹿児島市生まれ。
中学卒業後、鹿児島市内の百貨店に就職。53年にNHK『のど自慢』で
鹿児島県代表に選ばれ優勝したのを機に、歌手を目指し上京。
歌手の青木光一の付き人になり、
青木光一や島倉千代子の歌謡ショーで漫才や専属司会者を務めた。
島倉千代子の専属司会者を経て、獅子てんや・瀬戸わんや門下に入り
漫才コンビ「内藤ロック・安藤ロール」を結成。
解散後、「安藤ロール」の名前でストリップ劇場の浅草フランス座の
コメディアンになり、ここで萩本欽一と知り合い、
ストリップの合間に演じる幕間コントで共演。
66年にコント55号を結成。
TVカメラが追い付かない程縦横無尽に激しく動き回るコントで人気を博した。
69年に始まった『コント55号の裏番組をブッ飛ばせ!』では、
じゃんけんで負けると服を脱ぐ「野球拳」で人気を集めた。
服を脱ぐ罰ゲーム方式の野球拳を全国的に広めたのはコント55号と
言われている。
(このお色気方式の野球拳は番組側からの意向でやらされていた側面が強く、
本来の野球拳と違う方式を広めてしまった事を長い間気にしていた萩本欽一は
2005年に愛媛県松山市を訪問し本家野球拳の四代目家元に謝罪している)
70年代からは俳優としても活躍。
クイズ番組『ぴったしカン・カン』にも長く出演。
プライベートでは58年に結婚。娘の坂上亜樹は80年代に女優として活動し、
『スクール☆ウォーズ』など主に大映テレビのドラマ作品に出演。
味のある脇役を演じる女優として大映ドラマファンから高い評価を受けた。
1989年には当時大人気バンドだったユニコーンとコラボレーションし、
「坂上二郎とユニコーン」名義でシングル曲「デーゲーム」を発表。
ボーカルを担当し、往年のお笑い界の大御所と当時の人気バンドとの共演は
話題となった。

その後も時代劇や刑事物のドラマに出演し名脇役として活動を続けていたが、
2003年9月にゴルフのプレイ中に脳梗塞で倒れ病院に搬送。
同伴競技者に医師が居てすぐに適切な応急処置を施され搬送されたため
命には別状は無かったが、脳梗塞による言語障害などが残り、
必死のリハビリで2004年6月に復帰した。
晩年は芸能人養成学校「キャメルアカデミー」を練馬区平和台に開校。
2005年放送の『ウチくる!?』内では同校を紹介すると共に後進への思いを
語っていた。

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(上:坂上さんが晩年、東京メトロ有楽町線平和台駅そばのビル内に開校した
「キャメルアカデミー」のポスターと看板。)

2005年6月には所属事務所の浅井企画が栃木県那須塩原市に開校した
お笑い芸人の育成学校「那須お笑い学校」の名誉校長に就任。
後進の育成に努めた。
2006年、生まれ故郷の鹿児島県で結成された社会人野球チーム
鹿児島ホワイトウェーブの総監督に就任。
背番号は茨城ゴールデンゴールズの萩本欽一と同じ55だった。
その後もTV番組などに出演し芸能活動を続けていた中の
2010年8月13日に自宅の台所で再び脳梗塞で倒れ頭を強打、
病院に搬送されるも手足を動かせない状態になり入院を余儀無くされる。
入院後もセリフの吹き込みを行い声だけの活動を続けていたが、
2011年3月10日、入院中の栃木県内の病院にて脳梗塞により死去。
享年76歳。

訃報を受けて萩本欽一は

「コント55号は最高だった。二郎さんのおかげで楽しい笑い人生になった。
坂上二郎を忘れません。」

と涙ぐみながらコメントを発表し、長年の相方を偲んだ。




・松尾スズキ

俳優、演出家、脚本家、作家など多才でマルチな活動をされている
松尾スズキさんは、故郷の福岡県から上京して初めて住まわれた場所が
成増でした。

成増で暮らした期間は1年ほどだったそうです。
池袋の東急ハンズなどに足繁く通われていたとのこと。

(情報提供 おへんろさん ありがとうございました)




・瀬尾公治(せお こうじ)

成増・光が丘周辺を舞台にした漫画、「涼風」(すずか)の作者で
漫画家の瀬尾公治さんはご出身の広島県より上京後、
20歳の時(1995年)から7年間成増に住まわれていました。

「涼風」は週刊少年マガジンで2004年に連載を開始、
2007年の連載終了まで青少年を中心に人気を博し、
テレビ東京系列でアニメ化もされました。

作品では、成増や光が丘の風景が頻繁に登場します。

成増駅南口の時計やロータリー、
成増駅南口のスキップ村商店街、
練馬区旭町の出世稲荷神社、
練馬区旭町のコンビニ・デイリーヤマザキ、
練馬区光が丘の光が丘公園、

これらの場所がただ風景として描かれるだけではなく、
物語の中でストーリーに関係してくる所が作品の特徴になっています。

「涼風」ファンの間では“聖地巡礼”として成増を訪れ、
作品にゆかりのある成増のスポットを巡ったり、
作品中に登場する食べ物であるデイリーヤマザキの肉じゃがコロッケを
食べたり、成増の出世稲荷神社に参詣したりなどする人も多いそうです。

「涼風」に登場する成増の風景についてはこちら、
夏の缶詰さんのHPで詳しくレポートされています。

(参照リンク)
涼風と大和の住む街@野外録音「夏の缶詰」ホームページ
涼風地図

涼風
rakuten.co.jp

また、2008年から週刊少年マガジンで連載中の「君のいる町」も
成増が作品の舞台になっています。

「君のいる町」は2013年7月からテレビ東京系列でアニメが放送を
開始する事に合わせ「君のいる町」特製垂れ幕が、作品の舞台の成増に在る
なりますスキップ村商店街に2013年5月25日よりお目見えしました。

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作者の瀬尾さんはこのスキップ村商店街の特製垂れ幕について
ご自身のツイッターで、

「瀬尾公治 @seokouji

RT> 忙しくてウチから一歩も出ることができない哀れな漫画家に、
明日以降スキップ村の写真をアップしてくれる優しい人はおらんかのぅ
[電柱]д ̄) チラッ」

(2013年5月24日のツイート)

「瀬尾公治 @seokouji

ち、ちょっと画材を買いに行ってこようかなぁ。
成増スキップ村商店街にしか売っていない、あの伝説のGペンを。」

(2013年5月24日のツイート)
(スキップ村商店街の特製垂れ幕を見に行きたい為に、
“伝説のGペン”を買いに行くという後付けした理由を
つぶやいていらっしゃいました)

「瀬尾公治 @seokouji

@anime_kimimachi アシスタントさんに怒られました。。作家なのに。。
近々必ず行きます!!」

(2013年5月24日のツイート)

と、ツイートされていました。

『「君のいる町」成増 紹介映像』


また、2013年7月6日(土)から2013年8月31日(日)までの期間には
「君のいる町」TVアニメ放送開始を記念した
東武鉄道によるスタンプラリーが開催されました。

スタンプ設置場所は
(1)東武東上線池袋駅(南口改札付近)(2)東武東上線成増駅
(3)なりますスキップ村特設スタンプ台(ちよだ鮨横)
(4)なりますスキップ村ダイエー成増店(1F特設スタンプ台)の計4か所でした。
このスタンプラリーは、「君のいる町」作品中にリアルに描かれた「成増」へ
多くの人に来て貰い、アニメの世界観を感じながら散策を楽しんで貰う事を
目的に東武鉄道が開催したもので、池袋駅、成増駅のスタンプ2個と
商店街2か所のうち少なくとも1か所のスタンプ1個の合計3個以上を集めると、
同アニメの特製クリアファイルをプレゼントしてくれる
スタンプラリーとなっていました。

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(上:成増駅南口入口に掲示された「君のいる町」主人公の
“枝葉柚希”と“桐島青大”のパネル。)

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(上:成増駅構内に掲示された「君のいる町」登場人物のポスター。)

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君のいる町
rakuten.co.jp


「君のいる町」に登場する成増の風景についてはこちら、
舞台探訪総研さんのHPで詳しくレポートされています。

(参照リンク)
TVアニメ『君のいる町』舞台探訪(聖地巡礼)@成増




・大江千里(おおえ せんり)

歌手の大江千里さんは大阪府出身ですが、出生地は成増です。

1963年東京都板橋区成増生まれ。

成増で産まれ、生後間もなく大阪府に移り住んだそうです。




・一青窈(ひとと よう)

台湾出身の歌手、一青窈さんは台湾の幼稚園を卒業後日本に移住し、
一時、成増に住まわれていました。

一青さんはお父様が台湾人で、お母様が石川県出身の日本人だそうです。

TV番組『ザ・プラチナチケット』という番組では、
現在も成増に住んでいる叔母の家を訪ね、
成増で暮らしていた頃の話や今は亡き一青さんのお母様の思い出を語り、
涙していました。




・ゆでたまご:(・嶋田隆司・中井義則)

漫画「キン肉マン」で一世を風靡した漫画家、ゆでたまごのお2人は、
上京して最初に暮らした街が成増でした。

お2人共大阪府出身。
昭和54年5月、週間少年ジャンプにて「キン肉マン」の連載が開始され、
初めの1年間は先に中井さんが昭和53年に成増に上京、
嶋田さんは大阪に残り執筆、というシステムで描かれていたそうです。
そして、1年後の昭和54年に嶋田さんも成増に上京。
共に成増の風呂無し、共同トイレの4畳半の安アパートにて
キン肉マンを描いていたとのこと。

内容的には、主に
「キン肉マン アメリカ・ハワイ遠征編(第52話〜第79話)」とその前後が、
成増に居た時に描かれた作品だそうです。

成増の4畳半のアパートでは、「羽アリに悩まされた。」と以前にインタビューで語っていらっしゃいました。

インタビューでは他にも、

「人気が出始めたから東京に上京して仕事場を移したのに、
アメリカ・ハワイ遠征編は読者にウケが悪く、
もの凄く精神的に追い込まれた時期だった。」 

とお2人は語っていらっしゃいました。

嶋田さんはツイッターでも、

「ゆでたまご嶋田 @yude_shimada

ゆでたまご東京の足跡も見てもらいたいけど。
中井くんと二人でいた成増の下宿(今はもう無い)
集英社執筆室(これも無い)
三田線蓮根駅近くのクリーニング屋二階(これは残ってる)」

(2011年1月21日のツイート)

「ゆでたまご嶋田 @yude_shimada

今日は七夕か…ちょうど32年前の今日 私は大阪から上京してきたんだよな。
板橋区成増の家賃14,000円の風呂なし下宿。」

(2011年7月7日のツイート)

「ゆでたまご嶋田 @yude_shimada

上京の時は前もって送ったのは小1から使ってた勉強机ひとつと
洋服の入ったケース、寝具一式。
その日はハダカ電球の照明の下ボ〜としてた。
扇風機も無く暑いので窓開けてたらいろんな虫の総攻撃受けた。」

(2011年7月7日のツイート)

「ゆでたまご嶋田 @yude_shimada

成増の駅から20分くらい歩く畑や果樹園があるようなところだったからね

RT @honezamurai: @yude_shimada 東京にも虫いるんですね(笑)」

(2011年7月8日のリツイート)

「ゆでたまご嶋田 @yude_shimada

32年前上京した年の夏も暑かったけど エアコン、扇風機無しで
仕事してたな…
窓は開けっ放しで簾だけかけて 汗かきかきアメリカ編あたり描いてた。」

(2011年7月8日のツイート)

「ゆでたまご嶋田 @yude_shimada

行きます!自分のルーツ探しに

RT @Keigrant: @yude_shimadaせんせー!成増まで来たら串揚げ
ごちそうしますってば!!」

(2011年7月8日のリツイート)
(同じ東武東上線沿線下赤塚出身在住のラジオDJ、
ケイ・グラントさんへのリツイート)

等、成増で暮らされていた当時の事をつぶやかれていました。




・平山郁夫(ひらやま いくお)

名実ともに日本画壇における最高峰の日本画家として著名である画家の
故・平山郁夫さんは、かつてご一家で成増に住まわれていました。

<略歴>
1930年 広島県に生まれる。
1947年 東京美術学校日本画予科に入学。
1952年 東京美術学校日本画科を卒業。
東京芸術大学美術学部日本画科副手となる。前田青邨に師事。
1953年 第38回院展に初入選。東京芸術大学日本画科助手となる。
1954年 第9回春の院展で初の奨励賞受賞。(以後2回受賞)
1955年 日本美術院院友に推挙される。
1959年 原爆の後遺症で制作面でも行き詰まっていたが、
第44回院展に「仏教伝来」を出品し、制作上の転機となる。
同年、板橋区双葉から板橋区成増に転居。
1960年 第45回院展に「天山南路(夜)」を出品。
仏伝シリーズの制作をはじめる。
1961年 第46回院展の「入湟槃幻想」で日本美術院賞受賞。
東京国立近代美術館買い上げ。日本美術院特待に推挙される。
1962年 第47回院展の「受胎霊夢」で日本美術院賞受賞。
第1回ユネスコ・フェロープによリヨーロッパヘ留学。
1963年 第48回院展の「建立金剛心図」で
奨励賞(白寿賞・G賞)受賞。
1964年 日本美術院同人に推挙される。
第49回院展の「仏説長阿含経巻五」「続深海曼茶羅」で文部大臣賞受賞。
東京芸術大学美術学部日本画科講師となる。
1966年 東京芸術大学中世オリエント遺跡学術調査団に参加し
トルコヘ。イヒララ渓谷の中世キリスト教寺院、修道院の壁画模写に従事。
1967年 法隆寺金堂壁画再現事業に携わる。
1968年 中央アジアを旅行。
仏教伝来の源流を訪ね、この旅行がシルクロードに情熱を傾ける発端となる。
1969年 東京芸術大学助教授となる。
1970年 日本美術院評議員に推挙される。
1972年 8月鎌倉市二階堂に転居。
1973年 東京芸術大学教授となる。高松塚古墳壁画の現状模写に従事。
東京芸術大学イタリア初期ルネッサンス壁画調査団に参加。
1975年 日本美術家代表団の一員として初めて訪中。
1976年 第8回日本芸術大賞を受賞。
イラン・イラク・シリア・エジプト・トルコにて平山郁夫日本画展開催。
1977年 第11回仏教伝道文化賞を受賞する。
1978年 第63回院展「面禅院青邨先生還浄図」で内閣総理大臣賞受賞。
1979年 アテネ・北京・広州にて平山郁夫日本画展開催。
中国スケッチ旅行で初めて敦煌を訪れる。
1980年 奈良薬師寺玄奘三蔵院の壁画制作に取り組む。
1981年 日本美術院理事となる。
1983年 第1回東京芸術大学敦煌学術調査隊に参加。
1984年 外務省日本中国文化促進代表団に参加。
薬師寺玄奘三蔵院の壁画制作に着手
1985年 北京中央工芸美術学院外国人名誉教授となる。
第2回東京芸術大学敦煌学術調査隊に参加。
1986年 NHK「大黄河展」取材のため中国旅行。
1987年 第3回東京芸術大学敦煌学術調査団に団長として参加。
1988年 東京芸術大学学術部長となる。
ユネスコ親善大使に任命される。文化財保護振興財団が発足。理事に就任。
1989年 日本楼蘭学術文化訪問団団長として楼蘭遺跡を訪問。
東京芸術大学第6代学長となる。
1990年 ポロブドゥール遺跡と海のシルクロード取材のため、インドネシアヘ。
1991年 フランス国立ギメ東洋美術館で「平山郁夫シルクロード展」開催。
フランス政府よりコマンドール勲章を授与される。
1992年 中国日中国交正常20周年会議に出席。
早稲田大学名誉博士となる。
1993年 アンコール遺跡救済特別企画「平山郁夫の眼と仕事」を開催。
1994年 黒部峡谷を取材。宇奈月町制施行40周年記念特別講演を行う。
1995年 12月20日まで東京藝術大学学長を務める。
1996年 全国主要都市で「世界の文化遺産を描く-平山郁夫展」を開催。
日本育英会会長に就任。日本美術院理事長に就任。
1997年 故郷の広島県瀬戸田町に平山郁夫美術館が開館。
1998年 文化勲章を受章。広島県名誉県民、広島市名誉市民に顕彰される。
2000年 12月31日、構想以来約三十年をへて、
奈良薬師寺玄奘三蔵院《大唐西域壁画》が完成。
2001年 12月21日から再び東京藝術大学長に就任。
2004年 12月22日に大韓民国政府より
北朝鮮の高句麗古墳群のユネスコ世界文化遺産登録に寄与した功績で
修交勲章興仁章受章。
2005年 日韓友情年日本側実行委員長を務める。東京藝術大学学長を退官。
2009年 12月2日 脳梗塞により逝去。

日中友好協会会長
ユネスコ親善大使・世界文化遺産担当特別顧問
日本美術院理事長
独立行政法人国立文化財機構顧問

代表作に、仏教伝来に代表される仏伝シリーズ、
「平山芸術」と称されるシルクロードシリーズ、
古代幻想に着想した大和シリーズ、など。

作品価格は日本画家の中では飛びぬけて高い事で知られる。


平山さんは、成増には1959年(昭和34年)から1972年(昭和47年)まで
13年の間、ご一家で住まわれていました。

成増に家を建てる時の思いを生前、平山さんは
和歌山県知事の仁坂知事との対談でこう述べています。

平山画伯:
文部教官助手という肩書きになって、自分の研究実績が上らないと
いつ辞めさせられるかわからない。
これは薄氷の上を歩くような非常に厳しい環境です。
先生も、社会も、学生も、厳しい目で見ている。
死に物狂いになっても色んな要求が来るので、覚悟は決めて浪人になっても
勉強できる態勢だけは保っていたいと考えていました。
その点は貧乏長屋のようなアパート(中板橋(板橋区双葉)のアパート)に居て
家賃が安い上に、家内が中学の美術の先生をしながら少しずつ
貯金していってたんですよ。
私なんか、貯金の貯の字もありませんでしたけどね。
ある時、家内が「土地を買おう」と言い出して。
私は全然夢にも思わなかったんですがね。
助手をいつ辞めても慌てなくてもいいように、アトリエだけは作ろうと。

仁坂知事:
それが成増の(アトリエ)?

平山画伯:
そうです。アトリエを建てる事になって。棟上げには父に来てもらいました。
とても喜んで貰いました。
私が一人で居ると、貰った月給を飲んだり遊んだりするのに、
それをきちっと貯金をして。
まあ、山内一豊の妻じゃないが、貯金があると言われた時はびっくりしました。




・清水かつら

童謡「雀の学校」「叱られて」「靴が鳴る」「緑のそよ風」などの童謡の詩を
作詞した、詩人・童謡詩人の清水かつらさんは、和光市白子に住まわれ、
近所だった成増の商店街で買い物をしたり、
通勤に成増駅を利用されるなどしていました。

現在、成増には成増駅南口ロータリーにあるうたの時計塔をはじめ、
数々の清水かつらさんに縁があった場所にプレートや記念碑が
立てられています。




・阿部祐二

TVリポーターの阿部祐二さんは、以前成増で暮らされていました。
阿部さんは中板橋のご出身で、15歳までを中板橋で過ごされ、
高校生の時に成増に転居。
18歳まで成増に住まわれていたとのこと。

阿部さんは現在千葉県の浦安市にお住まいですが、
お子様の出産は下赤塚にある産婦人科の横田医院にお願いし、
横田医院で娘さんがお生まれになったそうです。




・宮前真樹

アイドルグループ「CoCo」の元メンバーで、
現在はタレントとして活動している宮前真樹さんは
「CoCo」として活動していたアイドル時代に成増に住まわれていました。

宮前さんは元々下赤塚のご出身(お生まれは新潟県十日町市)で、
後に同じ東武東上線沿線の上福岡にご家族で転居し暮らされていましたが、
アイドルとして活動していた時期に親元から独立して成増に引越し、
お一人で住まわれていたそうです。

宮前さんは、

「成増は初めての一人暮らしをした思い出の街だった。」

と、2001年放送の『出没!アド街ック天国』の「成増」の回に
ゲスト出演された時にご自身で話されていました。

その2001年放送の『出没!アド街ック天国』の「成増」の回では
宮前さんは他にも、成増のパスタ店 トラットリア イル ほうれんそう
(現在は閉店:工場のみ営業)で初デートした思い出なども語られていました。




・エスパー伊東

お笑い芸人のエスパー伊東さんは幼少時代成増に住まわれていました。

1960年熊本県阿蘇郡生まれ。

私立成増幼稚園卒園、
板橋区立成増小学校卒業。

高校は埼玉県立和光高等学校を卒業。

板橋区立成増小学校では成増出身で1961年生まれの石橋貴明さんが、
伊東さんの1つ下の学年にいらっしゃいました。

伊東さんはお生まれは熊本県阿蘇郡ですが、育ったのは東京都とのこと。
幼稚園時代と小学校時代を成増で過ごされたそうです。

「3、4歳の頃は川越街道沿いにある成増2丁目の森永乳業販売店で
暮らしていた。
その後、通っていた成増幼稚園に近い赤塚4丁目の森永乳業販売店に
転居した。」

「赤塚4丁目に引っ越した後、成増2丁目に住んでいた時に隣だった
ナショナル電器店の息子で友達の小倉君に会いたくなり、三輪車で
赤塚4丁目から成増2丁目に行く“大冒険”をした。」

「子供の頃、成増の田んぼで泥んこになってザリガニ捕りをしていた。」

等、伊東さんは以前ご自身のブログで語られていました。

(参照URL)
http://ameblo.jp/esper-ito/entry-11923230211.html
http://ameblo.jp/esper-ito/entry-11200725207.html


伊東さんは成人後は板橋区徳丸、板橋区東新町、板橋区志村坂上などに
住まわれており、その間には2012年には自宅マンションが空き巣被害、
2013年には以前伊東さんが住まわれていた板橋区内のマンションと
同じマンション内に住んでいた男から2年間に渡って金を脅し取られていた事が
明らかになるなど、数々の災難に遭われていますが、伊東さんは現在も
板橋区内に在住されています。
板橋区在住期間計18年間の内、板橋区内で6回転居されたそうです。
(2013年時点)

この事は伊東さんがご自身でブログ内にて話されていました。

(参照URL)
http://ameblo.jp/esper-ito/entry-11564663267.html


伊東さんは東武練馬に住まわれていた時、夜9時頃に東武練馬の踏み切りの
近くのコンビニに買い物に行った際に10人程の若い不良に絡まれた事が
あったそうです。

そしてコンビニ前の駐車場で「エスパー何か面白い事やれ」と不良に言われ、
仕方なく伊東さんは両手にコンビニの袋を持ったまま不良の前でギャグを
披露したとのこと。

そして翌日に当時まだ新宿区の曙橋に在ったフジテレビに収録に行き、
その収録でロンドンブーツ1号2号の田村淳さんと共演したそうですが、
田村さんは伊東さんの顔を見るなり
「ハハーッ(笑)、昨日エスパーさん不良らに絡まれていたでしょう。」
と言ってきたので伊東さんは
「あっちゃん、見てたなら助けてよ。」と返したそうです。

当時、田村さんは上京間も無い頃に一ヶ月程ですが東武練馬のアパートで
暮らしていた時期があり
、同時期に伊東さんも東武練馬に暮らしていた為に
この様なお二人の会話のやり取りが行われた、と
以前伊東さんはご自身のブログ内で話されていました。

(参照URL)
http://ameblo.jp/esper-ito/entry-11566287370.html


伊東さんはこれまでに計55回転居をされているそうで、
その中でも特に板橋区に18年間住み続けている理由をご自身のブログで、

「成増幼稚園・小学校出身。なので第2の故郷みたいなもの。」

「なんとなくこの地域に愛着があり、
東京都板橋区エスパー星を離れない理由でもある。」

と以前に語っていらっしゃいました。

(参照URL)
http://ameblo.jp/esper-ito/entry-11564713583.html




・弘兼憲史(ひろかね けんし)

「課長島耕作」「人間交差点」「黄昏流星群」などの作品で知られる
漫画家の弘兼憲史さんは以前、成増に住まわれていました。

1947年生まれ。山口県岩国市出身。

1966年早稲田大学法学部に合格し上京。上京の際は、
成増に耳鼻科(成増駅南口そばの成増耳鼻科:2013年12月に閉院)を開業し
経営していた叔父を頼って成増に住む。

大学卒業後の1970年に松下電器産業(現・パナソニック)に入社し
大阪の本社に3年ほど勤務した後、退社。
脱サラして上京し再び成増に在住。
仕事場も成増に置き、漫画の執筆活動を成増でされていました。

成増に在住していた当時・成増に仕事場を構えていた当時の
弘兼さんの作品の中では、成増や下赤塚の風景がそのまま描かれている
風景描写のコマが数多く有りました。
現在も弘兼さんの作品中には成増や下赤塚の風景が時折登場しています。

中でも1980年から1989年までヤングマガジンに連載していた
「ハロー張りネズミ」は
下赤塚を舞台にした作品で、特に多く成増や下赤塚の風景が作品の中に
登場しています。


成増に住まわれ仕事場も成増に在った1977年当時、
弘兼さんが漫画のアシスタントを探していた時に、新聞の
“家庭教師募集します。(お茶の水女子大学・大山寮)”
という家庭教師募集の求人欄を見て東上線の大山に在る大山寮に、
「漫画のアシスタントを探しているので漫研の子に繋いで下さい。」
と電話をして繋いでもらった学生が、当時お茶の水女子大学の学生で
大山のお茶の水女子大の学生寮に寄宿していた
柴門ふみさんだったそうです。

家庭教師募集の広告を見てお茶の水女子大の大山寮に電話をかけた理由は
弘兼さんが東上線の車内で以前、お茶の水女子大漫研発行の同人誌を
読んでいる女子大生(この方は柴門さんではなかったそうです。)を
見かけていてそれを覚えていた事が電話をかけるきっかけに
なったとのこと。

この事は弘兼さんの奥様の柴門ふみさんが以前、
女性漫画誌Kissの誌上インタビューにて話されていました。

成増に住まわれていた弘兼さんはその後練馬区の石神井に
転居されましたが、仕事場はそのまま成増に置かれ、
2000年代終わり頃まで成増の仕事場で執筆活動をされていたそうです。

弘兼さんは現在は吉祥寺に在住し仕事場もそちらに移されています。


posted by pokochi444 at 05:11 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする