2007年10月07日

朝霞出身・ゆかりのある芸能・有名人 -本田美奈子さんについて-

・本田美奈子

「1986年のマリリン」で有名な、歌手の故・本田美奈子さんは
朝霞のご出身です。

1967年東京都板橋区上赤塚町(現:板橋区成増)生まれ。

お産まれになった場所は成増にある成増産院。
産まれて間もなく東京都葛飾区から朝霞市に転居。

1971年(昭和46年) 朝霞白百合幼稚園入園。
1974年(昭和49年) 朝霞市立朝霞第六小学校入学。
1980年(昭和55年) 朝霞市立朝霞第一中学校入学。
1983年(昭和58年) 東京成徳短期大学附属高等学校入学。
後に堀越高等学校へ転入、卒業。

本田さんは2歳の時から亡くなるまでの間の大半の期間、
朝霞の地に住み、暮らされていました。
(アイドル時代は所属していた芸能事務所社長宅にて生活。)

本田さんは歌手になってからも地元朝霞警察署の交通安全運動などに
参加するなど、故郷との交流を大切にしていました。

朝霞周辺での目撃・遭遇情報は数多くあります。

(まさに1986年の夏、
地元朝霞のラーメン店に本田さんが居てサインを書いてもらった上に
ラーメンをおごって貰った。
本田さんは「あまりいいふらさないでね〜。」と可愛らしくお願いして
お店を出た、との情報。)

(自衛隊の朝霞駐屯地にてコンサートを開き、
旬のアイドルだった本田さんは自衛隊員達を熱狂の渦に巻き込んだ。など)



生前の2002年、本田さんは朝霞で凱旋公演を行っています。
その時の本田さんの印象的だったMCを紹介します。

「小学校の合唱団でこのステージに立ち、歌手になりたいと思いました。
その夢かなって再びこのステージに立つ事が出来るなんて・・・」

本田さんは感極まって涙されたそうです。

朝霞公演ではヒット曲「1986年のマリリン」や「朝霞音頭」などを歌い、
約900人のファンと一緒に、朝霞に錦を飾る形となった凱旋コンサートを
楽しんだとのこと。




<略歴>
1967年(昭和42年)7月31日、東京都板橋区上赤塚町(現成増)の
成増産院にて出生。
体重2860gで生まれ、その日に生まれた新生児を紹介する
ラジオ番組のコーナーで取り上げられる。

歌手になる事を夢見ていた母親の影響で幼い頃からいつも歌を歌っていた。
朝霞市立朝霞第六小学校の卒業文集にも「女優か歌手になれたらイイ」と
書き残している。

朝霞市立朝霞第一中学校時代に『スター誕生!』のオーディションを受け、
決戦大会にまで進出した。
しかしプロダクションからのスカウトはなかった。

1983年(昭和58年)4月、
東京都北区の東京成徳短期大学附属高等学校に入学。
同年7月に初めて原宿を訪れた際に、アイドルグループ少女隊のメンバーを
探していたボンド企画のスタッフにスカウトされ芸能界に入る。
ボンド企画社長の高杉敬二とは事務所倒産後も二人三脚で
歩み続ける事となった。

当時の少女隊のメンバーと言う構想に反し、歌唱力の高さを見込まれ
ソロ歌手として活動する事となり、
高校2年生の1984年(昭和59年)9月、第8回長崎歌謡祭に
本名の工藤美奈子で出場し、「夢少女」という楽曲を歌いグランプリを受賞。
この事がレコードデビューのきっかけとなった。

1985年(昭和60年)4月20日に東芝EMIから「殺意のバカンス」でデビュー。

同期デビューに、
斉藤由貴、中山美穂、南野陽子、森口博子、芳本美代子、井森美幸、
浅香唯、石野陽子、松本典子、森川美穂、おニャン子クラブ
などがいる。

デビュー当時のキャッチフレーズは
「美奈子、あなたと初めて」と「好きといいなさい!」
であった。

その後、4枚目のシングル「Temptation(誘惑)」をヒットさせたほか、
12月7日には新人歌手としては異例の武道館コンサートを成功させた。
また、同年の数多くの新人賞を受賞する。

1986年(昭和61年)2月5日、「1986年のマリリン」をリリースし大ヒット。
へそ出しルックの衣装や当時のアイドルとしては異例の、
腰を激しく振る振り付けで世間の注目を集める。

1987年にはTVドラマ『パパはニュースキャスター』の主題歌
「Oneway Generation」を歌い、
ドラマの高視聴率にも支えられ人気を博す。ドラマ本編にも本人役で出演。

同年には、映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』に初主演。

1988年(昭和63年)に女性だけのメンバーによるロックバンド
“MINAKO with WILD CATS”を結成。
シングル「あなたと、熱帯」、アルバム「WILD CATS」などを発表。

1990年(平成2年)、ミュージカル『ミス・サイゴン』のオーディションを受け、
約1万5000人の中からヒロインのキム役に選ばれる。
1990年からは晩年に至るまで主な芸能活動の場をミュージカルに移す。

1992年(平成4年)5月5日、『ミス・サイゴン』日本初演。
一年半のロングランをこなし、その歌唱力、演技力を高く評価された。
1992年度第30回ゴールデン・アロー賞演劇新人賞を受賞。

1998年(平成10年)、エイズチャリティーコンサートで「ある晴れた日に」
(プッチーニのオペラ『蝶々夫人』より)を歌い、
2000年(平成12年)3月、サリン事件チャリティーコンサートでは
ラフマニノフの「ヴォカリーズ」を歌った。
同年6月19日、シドニーオリンピック開催を記念して開かれた
シドニーのオペラハウスでの日豪親善コンサートに
服部克久の推薦により出演した際には、
「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」や「ある晴れた日に」を歌うなど、
この頃から次第にクラシックへの志向を強めていく。

2003年(平成15年)、初のクラシックアルバム「AVE MARIA」を発表。
ソプラノ的な唱法でクラシック楽曲に日本語訳詩をつけて歌うというスタイルで
自身の新境地を開拓。

2004年(平成16年)には武道館で行われた『Act Against AIDS』に出演、
38度を超える発熱をおして「ジュピター」と「1986年のマリリン」を歌った。
この頃から病気の兆候が表れはじめる。

2004年末頃から風邪に似た症状や微熱が続き、
翌2005年(平成17年)1月12日、
急性骨髄性白血病と診断を受けて緊急入院。

その後、治療として骨髄移植を希望するも、
ドナーが見付かるまで一刻の猶予すら無い病状であった為、
臍帯血移植を受ける。

2005年7月末には一時退院したが病気の再発が認められ、
同年9月初旬に再入院し輸入新薬による抗癌剤治療を受ける。
10月には再度一時退院、同月末に再び入院となる。
その後肺への合併症から容態が急変し、
2005年11月6日午前4時38分、家族らの見守る中、逝去。享年38歳。

法名は、「釋 優聲(しゃく ゆうしょう)」。
「優聲(ゆうしょう)」は「人の心を癒やす、優しい歌声」という意味がある。












2007年7月31日、本田さんの四十回目の誕生日にあたるこの日、
本田さんの功績を称える記念碑が
朝霞市により朝霞駅南口駅前広場に建てられました。

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記念碑はステンレス製で高さ1.2メートル。
本田さんが闘病中に書いた詩『笑顔』と、「ありがとう」という直筆メッセージが
刻まれ、ボタンを押すと本田さんの歌声が流れる仕組み。

除幕式には母親の工藤美枝子さんや
本田さんの友人で歌手の早見優さんらが出席し、工藤さんは、

「サクラや紅葉など、美奈子は窓から朝霞の四季の移ろいを眺めることが
好きでした。」

「娘はこの碑を通じ、これからも多くの人に元気を与えると思う。」

と思いを語られていました。

詩『笑顔』は、亡くなる8ヶ月前に入院先の病院で本田さんが書いた詩で、
記念碑に全文が刻まれており、記念碑には、


「怒っている顔よりも、泣いている顔よりも、困っている顔よりも、笑顔が一番」


と綴られています。


posted by pokochi444 at 05:13 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする