2007年10月07日

ふじみ野出身・ゆかりのある芸能・有名人

・桜樹ルイ

1990年代前半、アイドルAV女優として人気を博した元AV女優の
桜樹ルイさんはふじみ野出身です。

1969年熊本県生まれ。

富士見市立勝瀬中学校卒業。
高校は埼玉県立富士見高等学校を卒業。


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鶴瀬出身・ゆかりのある芸能・有名人

・北見けんいち

漫画「釣りバカ日誌」でおなじみの漫画家北見けんいちさんは、
以前埼玉県の鶴瀬に住まわれていました。

<略歴>
昭和15年12月11日生まれ。中国新京(現長春市)出身。
昭和21年に日本に引き揚げ、東京都板橋区志村で育つ。
多摩美術大学付属芸術学園卒業後、埼玉県鶴瀬に写真店を開業。
昭和39年赤塚不二夫氏のアシスタントとなり17年続けたのち40歳で独立。
青年コミック誌を中心に、“読者と等身大で、感情移入の出来る主人公”を
生み出し、人気を確立。
代表作に「焼跡全ガキ連」「釣りバカ日誌」「親バカ子バカ」
「焼けあとの元気くん」「愛しのチイパッパ」「野球少年」など。
昭和54年に連載が開始された「釣りバカ日誌」は
西田敏行・三国連太郎の共演で映画化もされ、国民的人気を博した。


北見さんは昭和34年に東京都立化学工業高等学校を卒業後、
サラリーマンになるも3ヶ月で退社。
その後入学した多摩美術大学付属芸術学園卒業後に、
埼玉県鶴瀬にて写真店を開店。
写真店を経営していたのは1年半程だったそうです。

ちなみに北見さんの代表作「釣りバカ日誌」の
主人公・浜崎伝助(ハマちゃん)の自宅は、
鶴瀬の県営団地の鶴瀬団地がモデルとのこと。

(参照URL)
http://gomagomadonut.blog61.fc2.com/blog-entry-48.html

他、北見さんは多摩美術大学付属芸術学園の学生だった学生時代、
カメラを買う為に、当時下赤塚に在った米軍の家族住宅地グラントハイツの
将校クラブで皿洗いのアルバイトをした事があったそうです。


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みずほ台出身・ゆかりのある芸能・有名人

・吉澤ひとみ

元「モーニング娘。」のメンバーで、現在はタレントとして活動している
吉澤ひとみさんはみずほ台出身です。

1985年埼玉県入間郡三芳町生まれ。

三芳町立唐沢小学校卒業。

中学校は地元の中学校には行かず、バレーボールが特技だった事もあり
バレー推薦で西東京市の私立武蔵野女子学院中学校に入学。
程なくして武蔵野女子学院中学校のバレー部廃部により、再度バレー推薦にて
文京区小石川の私立淑徳学園中学校(現:淑徳SC中等部)に転入、卒業。

みずほ台駅近くのラーメン屋さんには
吉澤さん直筆のサインが飾ってあるとのこと。(未確認情報)
その他、東上線池袋駅ホーム、川越駅などでも目撃情報がありました。

みずほ台出身の吉澤さんは以前、
『秘密のケンミンSHOW』の“大関東サミット”に
入間郡三芳町出身として出演された時には、


「ウチは三芳町なんですけど、大宮とかには遊びに行かなかったですね〜。
大体遊びに行くのは川越か、それかもうブクロ(池袋)まで出ちゃいます。
ブクロは何でも揃いますから。
埼玉県民にとって池袋はニューヨークみたいな所です。」


と話されていました。

『秘密のケンミンSHOW 大関東サミット 〜埼玉の明日を考える〜』



地元埼玉への地元愛が強い吉澤さんは、2009年1月には
埼玉応援団コバトン倶楽部に入部。

「これからは、コバトン倶楽部の一員として、
埼玉の魅力をたっくさんアピールしていきますね!」

と、コメントされていました。

また、2009年12月に関越道・三芳パーキングエリア上り線に出来た
商業施設「Pasar(パサール)三芳」のオープニングセレモニーに
参加された際には、

「緑が多くて開放感の有る素敵な施設が出来て嬉しい。」

「地元なのにどこかに遊びに来たような感じです。
地元三芳が日本を代表するパーキングエリアになって欲しい。」

と語られていました。

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(上:Pasar三芳オープニングセレモニーにてテープカットをする吉澤さん。)


こちらも以前吉澤さんが出演された番組です。
番組内で吉澤さんはパサール三芳や地元埼玉の味などについて
話されています。

『秘密のケンミンSHOW 〜あなたも埼玉県民になろうSP〜』



こちらの動画は吉澤さんが三芳町出身者として出演されたミニドラマです。
吉澤さんが地元埼玉ならではのグルメなどについて触れています。

『秘密のケンミンSHOW 辞令は突然に…埼玉県』


yossy.jpg


三芳町出身の吉澤さんは三芳町民の日である2014年11月3日に
三芳町広報大使に任命されました。

(参照URL)
https://www.town.saitama-miyoshi.lg.jp/town/koho/kohotaishi_yoshizawa_hitomi.html

吉澤さんは今後2年間三芳町の広報大使としてブログやメディアで
三芳町の魅力について広く紹介し、町のイメージアップや魅力発信に
努めていくとのこと。

吉澤さんは三芳町のイベントにも参加する予定となっており、
2015年2月1日には早速、三芳町文化会館のコピスみよしでのライブを行い、
盛況の内にライブは成功を収めたそうです。

yossy live miyoshi.jpg


吉澤さんは凱旋公演となった三芳町でのライブの感想をご自身のブログに
綴られていました。

(参照URL)
http://ameblo.jp/hitomi-yoshizawa0412/day-20150201.html
http://ameblo.jp/hitomi-yoshizawa0412/day-20150202.html

コピスみよしでのライブでは元モーニング娘。の5期メンバーである
小川真琴さんもスペシャルゲストとして駆けつけ、ライブの感想を
ご自身のブログで話されていました。

(参照URL)
http://ameblo.jp/ogawamakoto-blog/entry-11984612185.html

地元三芳町の広報大使に任命された吉澤さんは、

「私のふるさと「三芳町」をより多くの人に知っていただけるように
頑張ります!!」

と、意気込みを記者会見で話されていました。




・今成亮太(いまなり りょうた)

阪神タイガース所属のプロ野球選手、今成亮太さんは
みずほ台の出身です。

1987年埼玉県富士見市生まれ。

富士見市立水谷小学校、
富士見市立本郷中学校卒業。

高校は浦和学院高等学校を卒業。

お父様は北海道日本ハムファイターズのスカウトを務める今成泰章さん。
泰章さんは1979年から2002年までは阪神タイガースのスカウトを
務められていました。

<略歴>
水谷小学校入学前に野球を始める。
小学校時代は地元の野球クラブ「水谷フェニックス」に所属。
本郷中学校時代は地元の野球クラブ「富士見シニア」に所属しながら同時に
中学校のサッカー部にも所属し、
サッカーで埼玉県大会にも出場した経験を持つ。

浦和学院では捕手として2度、春夏の甲子園に出場。

2005年、浦和学院在学中の高校3年生時に
北海道日本ハムファイターズより4巡目指名を受け、入団。

2006、2007年は二軍に終わるも、
2008年、プロ3年目にして初の開幕一軍入りを果たす。
しかしながら2009、2010、2011年と出場機会に恵まれず、
主に代打として30試合程度のみの出場に留まる。
2012年、交換トレードで阪神タイガースに移籍。
捕手登録ながら外野手、一塁手でも出場。
2013年には自身プロ野球入り後初の本塁打を放つなど、
打撃面での好調を見せている。


みずほ台出身の今成選手は現在も新年会・忘年会は、
みずほ台駅東口より徒歩2分程の場所に在る居酒屋 サンキュウマンにて
行われているとのこと。
居酒屋 サンキュウマンはお父様の泰章さんが以前経営をされていたお店
だそうです。


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柳瀬川出身・ゆかりのある芸能・有名人

・村上隆(むらかみ たかし)

六本木ヒルズのキャラクター“ロクロク星人”のデザインや、
ルイ・ヴィトンの新シリーズのデザインも担当した現代美術家の村上隆さんの
アトリエが柳瀬川にあります。

アトリエ(有限会社カイカイキキ三芳スタジオ)の所在地は
三芳町竹間沢東とのこと。

村上さんのご出身は東京都板橋区坂下。

村上さんのアトリエは以前は志木・朝霞市内にもありましたが、
現在は志木のアトリエは無くなり、
朝霞のアトリエはメダカなどの生き物を育てるメダカファームに
なっているそうです。


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志木出身・ゆかりのある芸能・有名人

・板倉俊之:(インパルス)

お笑いコンビ「インパルス」の板倉俊之さんは志木出身です。

1978年兵庫県宝塚市生まれ。

兵庫県宝塚市で生まれ、
その後埼玉県富士見市、志木市と移り住まわれたそうです。

富士見市立鶴瀬西小学校、
志木市立志木第二中学校卒業。
高校は私立獨協埼玉高等学校を卒業。

志木出身の板倉さんは2007年放送の『はねるのトびら』で、その日の回に
ゲスト出演していた同じ東上線沿線若葉出身の女優の菅野美穂さんに
「2人共、同じ東武東上線出身なんですよね。」と話しかけ、
菅野さんも「そうなんですよ!」と答えて盛り上がっていました。


志木出身の板倉さんは他にも、2013年放送の
『出没!アド街ック天国』の「横浜中華街」の回に出演された時には、
2013年3月に東急東横線と東京メトロ副都心線が直通運転を開始した事に
より、実家のある東武東上線志木駅にも直通電車が乗り入れた事を
アピールされていました。

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『2013年3月30日 出没!アド街ック天国 (板倉さんの東上線トーク部分のみ)』
(東上線トークは0:49頃から。)


また他にも、
板倉さんが2013年7月放送の『PON!』にゲスト出演された時には、
地元志木市のご当地グルメ「はたざくらカッピーコロッケ」
地元のグルメとして紹介。

hatazakurakappikorokke.jpg

コロッケを試食した共演者の皆さんから「美味しい」と感想を貰った板倉さんは
非常に嬉しそうにしていました。




・中嶋ミチヨ(旧芸名 中嶋美智代)

乙女塾(フジテレビのタレント養成企画)出身のタレント、
中嶋ミチヨさんは志木出身です。

1973年生まれ。

志木市立志木中学校卒業。
高校は東京都豊島区立豊南高等学校を卒業。

中嶋さんはアイドルとしての乙女塾の活動を終えた後にタレントになり、
その後はTV番組等でプロ野球選手のご主人大村三郎さんの妻として
家計節約術を紹介するなどされていました。




・豊岡真澄(とよおか ますみ)

ホリプロのアイドルユニットP-chicksの一員として、
また“鉄道オタクアイドル”として有名だった、
元タレントの豊岡真澄さんは志木出身です。

1983年埼玉県志木市生まれ。




・アントニオ小猪木

ギャグプロレス団体「西口プロレス」所属のお笑い芸人、
アントニオ小猪木さんは志木出身です。

1971年埼玉県上尾市生まれ。

志木市立志木第二中学校卒業。
高校は私立昭和第一学園高等学校を卒業。




・相本久美子

元アイドルで、現在は女優・タレント活動などマルチにご活躍されている
タレントの相本久美子さんは以前志木に住まわれていました。

1958年東京都港区生まれ。ご出身は東京都港区。

新座市立第二中学校卒業。

高校は明治大学付属中野高等学校定時制を卒業。

ご自身の芸能界デビューのきっかけは、
新座市立第二中学校在学中の中学3年生の時に、
川越のデパートにて催されていた当時の女性アイドル牧葉ユミさんの
サイン会に遊びに出かけた際、その会場で牧葉さんに直接声をかけられて
スカウトされ、それが芸能界入りのきっかけになったそうです。

志木に住まわれていた時期については以前相本さんが
ラジオ番組『爆笑問題の日曜サンデー』の中で、

「幼稚園の時まで東京都港区で育って、小学生から高校時代位までは
志木に住んで(東武東上線を利用して高校やテレビ局がある駅まで)
通っていました。」

「志木ファイブ(※)が出来る前に(志木から)引っ越しちゃったので、
(志木ファイブの事は)分からないですねえ。」

「(同じ東上線沿線上福岡出身の太田さんに)
どこかでお互いすれ違っていたかも知れないですね。」

等、話されていました。

『2014年9月7日 爆笑問題の日曜サンデー ここは赤坂応接間
ゲスト:相本久美子』
(出身について話す相本さんは13:30頃から。)


(※ 志木ファイブ=東武東上線志木駅前北口(現在は東口)に
かつて1979年(昭和54年)から1984年(昭和59年)迄の間存在した、
ららぽーと系列のショッピングセンター。
1984年からは「ららぽーと志木」に名称変更し営業を続けるも、
2005年に耐震性の問題などから閉館、建物も解体された。)


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朝霞台出身・ゆかりのある芸能・有名人

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朝霞出身・ゆかりのある芸能・有名人

・尾崎豊(11歳〜中学〜高校時代)

尾崎さんのご実家があります。

尾崎さんが11歳の時(1976年)に防衛庁職員のお父様が朝霞に家を買い、
御一家で下赤塚(練馬区春日町)から朝霞に転居されてきました。

尾崎さんはご実家がある朝霞の事を歌の中で唄われていました。
朝霞を歌った尾崎さんの代表的な曲が「坂の下に見えたあの街に」です。

「坂の下に見えたあの街に」


曲のタイトルで詩の中にも出てくる「坂の下に見えたあの街」は、
朝霞市溝沼にある
滝の根公園のすぐ北側にある神明坂(しんめいざか)の坂道の上から観た
朝霞の街です。
曲は1985年リリースのセカンドアルバム「回帰線」に収録されています。

回帰線
rakuten.co.jp

朝霞の尾崎さんのご実家は一般家庭の家にもかかわらず、
尾崎さんのファンの間では有名な場所となっており、
尾崎さんが活動していた当時からご実家を訪れるファンが
後を絶たなかったそうです。

1992年4月25日に尾崎さんが亡くなった時には、
悲しみに暮れ尾崎さんの実家前に集ったファンへ向けて
“尾崎豊の父からのメッセージ”としてお父様の直筆で、

「豊は風になって いつもどこかで歌っている
きっと 君の胸の中でも
君の心は 必ず彼に届いています」

という文が書かれた紙がご実家の門扉に貼られていました。




・中澤聡太

サッカー選手の中澤聡太さんは朝霞出身です。
中澤さんは東京都三鷹市生まれですが、幼少時に朝霞市に転居。

朝霞市立朝霞第七小学校、
朝霞市立朝霞第二中学校卒業。
高校は千葉県船橋市立船橋高等学校を卒業。

<略歴>
1982年生まれ。
幼稚園の時よりサッカーを始める。
朝霞第二中学時代には浦和レッズジュニアユース所属。
その後千葉県船橋市立船橋高等学校を経て、
ディフェンダーで柏レイソルに所属。
2001年にはU-20日本代表として3試合に出場。
以降は柏レイソル→FC東京→2012年まではガンバ大阪に所属。
2013年からは川崎フロンターレに所属。




・中里篤史

元プロ野球選手の中里篤史さんは朝霞出身です。

朝霞市立朝霞第二小学校、
朝霞市立朝霞第二中学校卒業。
高校は私立春日部共栄高等学校を卒業。

<略歴>
1982年生まれ。
ポジションは投手。
高校時代は甲子園出場はならずも、埼玉県大会や関東大会などで好投し、
プロ野球スカウトから注目を受ける。
高校卒業後の2000年に中日ドラゴンズよりドラフト1位指名され
ドラゴンズ入団。
2009年に読売ジャイアンツに入団。2011年に現役引退。
現在は巨人のスコアラーを務めている。




・魔裟斗

元キックボクサーの魔裟斗さんは朝霞出身です。
12歳から20歳になるまでの間、新座市に住まわれていました。

朝霞市立朝霞第四小学校、
朝霞市立朝霞第四中学校卒業。

masato.JPG

こちらは2014年に魔裟斗さんがTV番組に出演された時の動画です。

『2014年8月2日 さんま&くりぃむの第18回芸能界(秘)個人情報グランプリ!
(魔裟斗さんの出演部分のみ)』


<略歴>
1979年千葉県柏市生まれ。
小学校2年生の時に両親の都合で千葉県柏市より沖縄県に引っ越す。
小学校6年生の時に再び両親の都合により埼玉県新座市に転居。
以後高校中退後20歳まで新座市で過ごす。
高校は私立埼玉栄高等学校に入学するも1年で中退。
15歳の時に豊島区目白にあるヨネクラボクシングジムに入会するも
2年で退会し、17歳でキックボクシングへ転向。
全日本キックボクシング連盟を経て、自主興業を行った後、
K-1WORLDMAXで活躍。2度の優勝を果たす。
現在は都内在住。


魔裟斗さんは2010年には母校の朝霞市立朝霞第四小学校を訪れ、
6年生の生徒達に課外授業を行っていました。

『2010年12月5日 課外授業 ようこそ先輩 〜本気で挑め!〜 魔裟斗』


番組内で魔裟斗さんは授業のプログラムとしてボクシング形式の
ボール取りゲームを行わせるなど、独特の授業を展開。
ユニークな授業を行う一方で朝霞第四小学校の子供達には、


「俺は「夢」って言葉があんまり好きじゃない。
もちろん「夢」を持つのは良いんだけど、「夢」って言っちゃうと弱い感じになる。
俺の考えだけどね。
俺は、「目標」という言葉の方がより強い意味があると思っている。」


「逃げてばっかりいては、人生で勝つ事は出来ない。」


と自身の経験から出た言葉を伝えるなど、心のこもった熱い授業を
行っていました。




・村上隆(むらかみ たかし)

六本木ヒルズのキャラクターデザインやルイ・ヴィトンの新シリーズのデザインも
担当した、現代美術家の村上隆さんのアトリエが以前朝霞に在りました。

アトリエが在った場所は朝霞市上内間木の丸沼芸術の森内で、
1996年に村上さんが起こした制作スタジオ「ヒロポンファクトリー」の
アトリエとして設立され、
かつては、村上さんが代表を務める有限会社カイカイキキの作品の
製作拠点の一つとして機能していました。

現在アトリエは、カイカイキキが運営するメダカなどの生き物を育てるファーム
「メダカファーム」に姿を変え、丸沼芸術の森に残っているそうです。

村上さんのアトリエは以前は志木市内にもありました。




・田中みな実

TBSアナウンサーの田中みな実さんは朝霞出身です。

1986年アメリカ・ニューヨーク生まれ。

中学校・高校は大妻中学高等学校を卒業。
青山学院大学文学部英米文学科卒。

田中さんはお生まれはアメリカ合衆国ニューヨーク市。
ニューヨーク生まれの田中さんにはミドルネームがあり、
本名は「田中・エイミー・みな実」になるとのこと。

田中さんはニューヨークにてお生まれになった後に日本に帰国しますが、
小学校1年生の時からはロンドンやサンフランシスコなど主に海外で
生活されていて、日本で暮らし始めたのは中学校に入る前位の時期から
だったそうです。




・小木逸平(こぎ いっぺい)

テレビ朝日アナウンサーの小木逸平さんは朝霞出身です。

1974年生まれ。

高校は埼玉県立浦和西高等学校を卒業。
中央大学文学部哲学科卒。




・小林よしひさ

NHK教育テレビ『おかあさんといっしょ』の
11代目「体操のお兄さん」を務めている、
体操インストラクターの小林よしひささんは朝霞出身です。

1981年埼玉県朝霞市生まれ。

高校は埼玉県立朝霞高等学校を卒業。
日本体育大学体育学部卒。

10代目体操のお兄さんとして有名な佐藤弘道さんは日体大の先輩に当たり、
大学時代から面識があったそうです。

子供達からの愛称は「よしおにいさん」という小林さんは、
体操のお兄さんとして『おかあさんといっしょ』の番組内で
「ぱわわぷたいそう」などの体操を担当されています。




・土井杏南(どい あんな)

2012年ロンドンオリンピック女子4×100mリレーの日本代表に選ばれ
オリンピックに出場し、日本陸上界で戦後最年少オリンピック出場選手と
なった女子短距離走陸上選手の土井杏南さんは朝霞出身です。

1995年東京都生まれ。朝霞市育ち。

朝霞市立朝霞第九小学校、
朝霞市立朝霞第一中学校卒業。

高校は私立埼玉栄高等学校を卒業。

<略歴>
小学校5年生の時に陸上競技を始める。
小学校6年生時に第23回全国小学生陸上競技交流大会女子100mに出場、
13秒08のタイムで2位。

中学校2年生時に出場した第36回全日本中学校陸上競技選手権大会では
女子100mで11秒89のタイムを出して優勝。
400mリレー(4×100mリレー)では朝霞第一中学校チームのアンカーを
務め、47秒30の中学新記録で優勝した。

3年生時に出場した第37回全日本中学校陸上競技選手権大会では
11秒61の中学新記録で前年に続いて優勝し連覇、
400mリレーでは朝霞第一中学校チームのアンカーを務め、
48秒38のタイムでこちらも優勝し連覇を果たした。

2011年春に陸上の名門である埼玉栄高等学校に進学。
高校1年次から女子ユース大会や国体で優勝するなどして活躍。
高校2年次には女子100m走高校日本記録の11秒43を記録し、
2014年現在高校日本記録保持者である。

高校2年次の2012年6月9日、ロンドンオリンピック日本代表選考会となった
第96回日本陸上競技選手権大会(大阪市長居陸上競技場)女子100mでは
予選で11秒47のタイムで全体1位となって決勝進出、
決勝では好スタートから70mまで首位を走り、
ゴール前で福島千里に抜かれ優勝は逃したが11秒51で2位となった。
同7月3日、女子4×100mリレー日本代表のロンドンオリンピック出場が
決定した事を受け、日本陸上競技連盟により代表の一員に選出された。

同8月9日、イギリスで開かれた2012年ロンドンオリンピック
女子4×100mリレー予選第1組に第1走者として出場。
日本陸上界で戦後最年少オリンピック出場(16歳11ヶ月:高校2年生)選手と
なった。

レースでは、土井と第2走者の市川華菜の間が詰まるなどを含めた複数の
バトンミスが起こり44秒25の8位となり、予選通過を果たす事は
出来なかった。

2013年の高校3年次には腰痛を発症した影響で調子を落とすも、
女子100mでは高校総合体育大会や国体で優勝するなど、
オリンピック出場選手としての貫禄を示した。

国体終了後には「理解のある良い指導者の先生が居られる」との理由で、
2014年春に大東文化大学へ入学。
スポーツ/健康科学部スポーツ科学科に籍を置き在学している。


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朝霞出身・ゆかりのある芸能・有名人 -本田美奈子さんについて-

・本田美奈子

「1986年のマリリン」で有名な、歌手の故・本田美奈子さんは
朝霞のご出身です。

1967年東京都板橋区上赤塚町(現:板橋区成増)生まれ。

お産まれになった場所は成増にある成増産院。
産まれて間もなく東京都葛飾区から朝霞市に転居。

1971年(昭和46年) 朝霞白百合幼稚園入園。
1974年(昭和49年) 朝霞市立朝霞第六小学校入学。
1980年(昭和55年) 朝霞市立朝霞第一中学校入学。
1983年(昭和58年) 東京成徳短期大学附属高等学校入学。
後に堀越高等学校へ転入、卒業。

本田さんは2歳の時から亡くなるまでの間の大半の期間、
朝霞の地に住み、暮らされていました。
(アイドル時代は所属していた芸能事務所社長宅にて生活。)

本田さんは歌手になってからも地元朝霞警察署の交通安全運動などに
参加するなど、故郷との交流を大切にしていました。

朝霞周辺での目撃・遭遇情報は数多くあります。

(まさに1986年の夏、
地元朝霞のラーメン店に本田さんが居てサインを書いてもらった上に
ラーメンをおごって貰った。
本田さんは「あまりいいふらさないでね〜。」と可愛らしくお願いして
お店を出た、との情報。)

(自衛隊の朝霞駐屯地にてコンサートを開き、
旬のアイドルだった本田さんは自衛隊員達を熱狂の渦に巻き込んだ。など)



生前の2002年、本田さんは朝霞で凱旋公演を行っています。
その時の本田さんの印象的だったMCを紹介します。

「小学校の合唱団でこのステージに立ち、歌手になりたいと思いました。
その夢かなって再びこのステージに立つ事が出来るなんて・・・」

本田さんは感極まって涙されたそうです。

朝霞公演ではヒット曲「1986年のマリリン」や「朝霞音頭」などを歌い、
約900人のファンと一緒に、朝霞に錦を飾る形となった凱旋コンサートを
楽しんだとのこと。




<略歴>
1967年(昭和42年)7月31日、東京都板橋区上赤塚町(現成増)の
成増産院にて出生。
体重2860gで生まれ、その日に生まれた新生児を紹介する
ラジオ番組のコーナーで取り上げられる。

歌手になる事を夢見ていた母親の影響で幼い頃からいつも歌を歌っていた。
朝霞市立朝霞第六小学校の卒業文集にも「女優か歌手になれたらイイ」と
書き残している。

朝霞市立朝霞第一中学校時代に『スター誕生!』のオーディションを受け、
決戦大会にまで進出した。
しかしプロダクションからのスカウトはなかった。

1983年(昭和58年)4月、
東京都北区の東京成徳短期大学附属高等学校に入学。
同年7月に初めて原宿を訪れた際に、アイドルグループ少女隊のメンバーを
探していたボンド企画のスタッフにスカウトされ芸能界に入る。
ボンド企画社長の高杉敬二とは事務所倒産後も二人三脚で
歩み続ける事となった。

当時の少女隊のメンバーと言う構想に反し、歌唱力の高さを見込まれ
ソロ歌手として活動する事となり、
高校2年生の1984年(昭和59年)9月、第8回長崎歌謡祭に
本名の工藤美奈子で出場し、「夢少女」という楽曲を歌いグランプリを受賞。
この事がレコードデビューのきっかけとなった。

1985年(昭和60年)4月20日に東芝EMIから「殺意のバカンス」でデビュー。

同期デビューに、
斉藤由貴、中山美穂、南野陽子、森口博子、芳本美代子、井森美幸、
浅香唯、石野陽子、松本典子、森川美穂、おニャン子クラブ
などがいる。

デビュー当時のキャッチフレーズは
「美奈子、あなたと初めて」と「好きといいなさい!」
であった。

その後、4枚目のシングル「Temptation(誘惑)」をヒットさせたほか、
12月7日には新人歌手としては異例の武道館コンサートを成功させた。
また、同年の数多くの新人賞を受賞する。

1986年(昭和61年)2月5日、「1986年のマリリン」をリリースし大ヒット。
へそ出しルックの衣装や当時のアイドルとしては異例の、
腰を激しく振る振り付けで世間の注目を集める。

1987年にはTVドラマ『パパはニュースキャスター』の主題歌
「Oneway Generation」を歌い、
ドラマの高視聴率にも支えられ人気を博す。ドラマ本編にも本人役で出演。

同年には、映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』に初主演。

1988年(昭和63年)に女性だけのメンバーによるロックバンド
“MINAKO with WILD CATS”を結成。
シングル「あなたと、熱帯」、アルバム「WILD CATS」などを発表。

1990年(平成2年)、ミュージカル『ミス・サイゴン』のオーディションを受け、
約1万5000人の中からヒロインのキム役に選ばれる。
1990年からは晩年に至るまで主な芸能活動の場をミュージカルに移す。

1992年(平成4年)5月5日、『ミス・サイゴン』日本初演。
一年半のロングランをこなし、その歌唱力、演技力を高く評価された。
1992年度第30回ゴールデン・アロー賞演劇新人賞を受賞。

1998年(平成10年)、エイズチャリティーコンサートで「ある晴れた日に」
(プッチーニのオペラ『蝶々夫人』より)を歌い、
2000年(平成12年)3月、サリン事件チャリティーコンサートでは
ラフマニノフの「ヴォカリーズ」を歌った。
同年6月19日、シドニーオリンピック開催を記念して開かれた
シドニーのオペラハウスでの日豪親善コンサートに
服部克久の推薦により出演した際には、
「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」や「ある晴れた日に」を歌うなど、
この頃から次第にクラシックへの志向を強めていく。

2003年(平成15年)、初のクラシックアルバム「AVE MARIA」を発表。
ソプラノ的な唱法でクラシック楽曲に日本語訳詩をつけて歌うというスタイルで
自身の新境地を開拓。

2004年(平成16年)には武道館で行われた『Act Against AIDS』に出演、
38度を超える発熱をおして「ジュピター」と「1986年のマリリン」を歌った。
この頃から病気の兆候が表れはじめる。

2004年末頃から風邪に似た症状や微熱が続き、
翌2005年(平成17年)1月12日、
急性骨髄性白血病と診断を受けて緊急入院。

その後、治療として骨髄移植を希望するも、
ドナーが見付かるまで一刻の猶予すら無い病状であった為、
臍帯血移植を受ける。

2005年7月末には一時退院したが病気の再発が認められ、
同年9月初旬に再入院し輸入新薬による抗癌剤治療を受ける。
10月には再度一時退院、同月末に再び入院となる。
その後肺への合併症から容態が急変し、
2005年11月6日午前4時38分、家族らの見守る中、逝去。享年38歳。

法名は、「釋 優聲(しゃく ゆうしょう)」。
「優聲(ゆうしょう)」は「人の心を癒やす、優しい歌声」という意味がある。












2007年7月31日、本田さんの四十回目の誕生日にあたるこの日、
本田さんの功績を称える記念碑が
朝霞市により朝霞駅南口駅前広場に建てられました。

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hondakinenhi2

記念碑はステンレス製で高さ1.2メートル。
本田さんが闘病中に書いた詩『笑顔』と、「ありがとう」という直筆メッセージが
刻まれ、ボタンを押すと本田さんの歌声が流れる仕組み。

除幕式には母親の工藤美枝子さんや
本田さんの友人で歌手の早見優さんらが出席し、工藤さんは、

「サクラや紅葉など、美奈子は窓から朝霞の四季の移ろいを眺めることが
好きでした。」

「娘はこの碑を通じ、これからも多くの人に元気を与えると思う。」

と思いを語られていました。

詩『笑顔』は、亡くなる8ヶ月前に入院先の病院で本田さんが書いた詩で、
記念碑に全文が刻まれており、記念碑には、


「怒っている顔よりも、泣いている顔よりも、困っている顔よりも、笑顔が一番」


と綴られています。


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和光市出身・ゆかりのある芸能・有名人

・こずえ鈴(現 フリーディア)

タレントのこずえ鈴(現在の芸名はフリーディア)さんは
和光市市内に中学〜高校を卒業する頃まで、御一家で住まわれていました。

1980年ドイツ・シュツットガルト生まれ。

こずえさんは2001年放送の『出没!アド街ック天国』の「成増」の回の時には、
隣町和光市の出身として出演されていました。

和光市での生活は、こずえさん自身がTV番組で当時の事について
語られていました。以下がその時のトーク内容です。



-『笑っていいとも!』テレフォンショッキング(1999年11月25日放送)で----

タモリ(以下略):(ドイツ、どこで生まれたの?)

こずえ鈴(以下略):「ドイツのシュツットガルトです。知ってますか?」

(名前聞いた事有る。)

「そこです。」

(幾つ迄シュツットガルトに居たの?)

「半年位で、すぐブラジルに行って。」

(全然憶えてないんだ、それじゃ?)

「憶えてないです。」

(それですぐブラジル行ったの?)

「はい。」

(ブラジルどこ行ったの?)

「サンパウロです。」

(それで?)

「それでアメリカです。」

(幾つ迄ブラジルに居たの?)

「多分1歳か2歳位じゃないですかね。」

(それもあんまり憶えてない?)

「憶えてないですね。」

(それでアメリカ行ったの?)

「そうです。」

(アメリカどこ行ったの?)

「アメリカ、最初はペンシルベニアの方に行って、
途中でバージニア州行ったんですけど、行った事ある?」

(無い。)

「無い?残念。」

(うん。残念(笑)。)

「(笑)」観客

(それでいつ日本来たんだ?)

「6年前ですよ。6年前。」

(幾つ迄居たんだ?アメリカには。)

「13歳迄です。」

(それじゃ、ええと、日本人はお母さん?)

「お父ちゃん。」

(お父ちゃん日本人?)

「日本人です。」

(お母さん何人なの?)

「ブラジル人です。」

(はぁ〜。何でドイツに居たんだよ?)

「お父さんとお母さんがラブラブになって、
それでドイツにお父さんの仕事で行ったんですよ。」

(あ、ブラジルで知り合って。)

「はい。」

(それじゃ日本語ってのは小っちゃい頃からあんまり聞いてないよね?)

「聞いてないです。日本に来てから。」

(日本に来て、6年前に初めて日本語分かったの?)

「そうです!」

(大変だ〜。6年前、ええと、幾つの時だっけ?)

「13歳ですね。」

(13で日本に来たんだ。)

「そうです。」

(はぁ〜!どういう感じだった?いきなり東京来たの?)

「埼玉。」

「(笑)」観客

(シュツットガルト、サンパウロ、ペンシルバニア、)

「はい。」

(それから?)

「バージニア。」

(バージニア、埼玉。)

「埼玉。」

「(笑)」観客

「すいません。」

(埼玉のどこ?)

「埼玉、和光市。」

(和光市。)

「すいません。」

(ちょっと英語風だよね、和光ってのね。)

「(笑)」観客

「和光市です。」

(和光市に突然初めて日本に来たんだな。)

「そうです。」

(それで?学校は普通の学校行ったの?)

「普通の和光三中に。」

(和光三中。)

「(笑)」観客

「すいません。」

(バージニアは二中?どこだったのバージニア。)

「バージニア、あの、(英語)スクールってのがあって。」

(そこから、和光三中。)

「(笑)」観客

(戸惑ったろう?なぁ?)

「大変でした。」

(大変だったろう?)

「はい。」

(和光三中は良いけども、和光三中は、全員英語喋らないよね?)

「喋れないんですよ。でも、」

(どうした?学校行くのに。分からないでしょ。
喋れなかったら学校、三中行った時に。)

「だから聞いて無かった。」

(何にも聞いてなかった?)

「ただ黒板に書いてある物を書いたりして。」

(友達とか出来ないだろう?)

「出来なかったよ。寂しかったよタモさん。」

(そうか・・・)

「(笑)」観客

(早く言ってくれればな。(笑))

「大変でした。」

(誰と遊んでたんだよ?)

「う〜ん、弟と一緒に遊んだりしました。」

(そう?)

「はい。」

(それで、でも、3年間行った、
じゃあ1年間くらい全く日本語分かんないだろう?)

「全く分かんないです。」

(6年でよく普通になったな。)

「テレビとか観ると分かる様になりますよ。」

(逆だ。日本に来てテレビ何観てたの?)

「何観てたんだろう?あの、志村けんさんのギャグとか。」

「(笑)」観客

「アイーンとか。」

(あれ日本語の勉強にはなんないだろう?)

「(笑)」観客

「でも、」

(志村けん観てたら日本語になんねえだろう?)

「結構あれ勉強なりますよホントに。」

(志村けんの?)

「はい。加トちゃんペッとか。」

(それで何となくテレビ観てたら面白かったの?)

「はい、そうです。」

(日本のテレビ面白いもんな。)

「面白い。面白い。面白いですね。」

(日本の。)

「そうですね。」

(何言ってるんだよ。)

「(笑)」観客

(日本のテレビは今世界で一番面白いらしいからね。)

「面白い。大好きです。」

(こんな色んな番組無いらしいから。)

(それで1年くらいでようやく喋られる様になったの?)

「そうです。」

(へぇ〜。『いいとも』とか、そうかお昼だからな。)

「でも観てました。」

(観てた?)

「有難うございます。」

(何で?)

「(笑)」観客

(あ、日本語を色々。)

「はい。」

(で、高校は普通の高校?)

「普通のはい、和光高校。」

(和光高校。)

「(笑)」観客

「(笑)すいません。」

(和光三中、和光高校。)

「和光高校です。」

(その頃はもう大丈夫だった?日本語。)

「もう全然、ペラペラバリバリ。」

(じゃぁあれ?ブラジルってポルトガル語だっけ?)

「ポルトガル語はヒアリング大丈夫なんですけど、」

(喋るのは。)

「喋らないんです、はい。」

(家ではお父さんお母さん何語で喋ってるの?)

「英語です。」

(お母さん、でもブラジルだからブラジルの音楽とか何とか聞いてない?)

「聞いてます。そしたらお母さん燃えるのサンバ踊り始めるの。」

(楽しい家庭だね、サンバ。)

「楽しいですよ。」

(あんまりお母さんがサンバ踊る家庭ってのは、和光で一軒だけだったろう?)

「(笑)」観客

「そうかもしれない!そうだ、そうですね。」

(弟がいる、弟幾つなの?)

「弟(モデル、土屋アンナの元夫のJOSHUA)16歳です、はい今。」

(へぇ〜、そう?可愛い?やっぱり。)

「ん〜・・・」

(顔そんなに可愛く無いの?)

「いまいち。」

(いまいちなの?)

「はい、よく分かんないですね。」

(そう?)

「はい。」

(でも姉がこんな可愛いんだからね、弟も可愛いと思う。)

「いや〜。」

(顔小っちゃいな〜。)

「(笑)」観客

(俺のグーと同じくらいじゃないか?)

「そう。」

(小っちゃいよね。)

「小っちゃい」観客

「タモリさんも私のグーと同じくらい。」

(いや、そんな事はない。)

「(笑)」観客

(そんな事はない。)

「(笑)」観客

(小っちゃいな〜この位だもんね。)

「いや〜、違います。」

(顔洗う時なんかこぼさないで良いだろう?)

「(笑)」観客

「(笑)」

(幾つになったんだ?それで。)

「19歳です!もうすぐ二十歳。」

(来年二十歳になるんだ。)

「大人でしょ。」

(大人になったよな〜。)

「大人ですもうすぐ。」

(もう日本にずっと居るのか?)

「ずっと居ます。はいタモリさんの近くに居ます。」

(そうか。(笑))

「(笑)」観客

(やっぱり良いか?日本が。)

「日本良いですね、何でも有りますし、何か。」

(そうだよな。)

「大好きです、はい。」

(食べ物だって世界中の美味い物東京に居れば食べられるもんな。)

「ああ、そうですよね。」

(ブラジル料理だって食べられるでしょ。)

「あります、はい。」

(お母さんたまに行ってるの?)

「お母さん今日本に居ないんですけど。はい。」

(日本にいない。)

「はい。」

(今でも和光?)

「いや、今はもう東京です。東京。」

(東京か。)

「嬉しい。「どこに住んでるの?」「東京。」(笑)」

「(笑)」観客




-『徹子の部屋』(2002年5月1日放送)で----

黒柳徹子(以下略):≪それで日本にいらして。
お父様って全然日本語が上手じゃないって本当なの?
お父様は日本の方ですよ。なのに全然日本語が上手じゃないんですって。≫

こずえ鈴(以下略):「そうです。ちょっと英語訛りが入っていて。」

≪お母さんがブラジルの方だそうですけども。
弟さん(モデル、土屋アンナの元夫のJOSHUA)がいらっしゃって。≫

「はい。」

≪私凄いと思ったのは日本の公立中学・高校にいらしたのが、
今のあなたの日本語に随分影響を与えていると思いますね。≫

「たぶんそうでしょうね。」

≪来たときは全然出来なかったんでしょう?≫

「“こんにちは”、“ありがとう”、ぐらいですね。」

≪お父様とはいつも英語で話して。≫

「そうです。」

≪お父様は何事も突然なんですって?何かスイスに行った時も。≫

「スイスに居た時も突然スキーやりたいって言って。いきなり山の上に上って。」

≪あなたも準備がねえ。≫

「スキーやる時はいろいろ必要じゃないですか。ウェアとか板とか。
でもそんなの要らないって言って。」

≪(スキーウェアなどを)向こうで借りたりとかして。≫

「いや普通の服でコートだけを着て板だけは借りて。
で、お父さんだけスイスイどこかに行っちゃったんですよ。
鈴ちゃんは泣きながらずっと待ってました。(会場笑)」

≪日本に9年前に行く時も前から行くぞ行くぞというのじゃなくて。≫

「じゃなくて何週間前に「行くから」って。」

≪それも一人言の様だったんですって?≫

「はい。」

≪「行くから〜」見たいな感じで。≫

「そうです最近も電話が掛かってきて、「今渋谷」とか言って。(会場笑)」

≪お父様今までアメリカにいらしたんでしょ。≫

「そうなんです。」

≪じゃあ突然は驚かないですね。≫

「うん・・・たまに驚きます。」

≪いつも科学の事を考えてらっしゃるから、
そんなスケジュールの事とかは考えてらっしゃらないんですね。≫

「やりたい事はやっちゃうみたいな。」

≪いつも科学の事が頭にあるんじゃないですか。≫

「そんな感じがします。いつも勉強してます。」

≪私今キューリー夫人の舞台をやっているんですけども、
いつも科学の事を考えてますね。
だけどいきなり日本に行くぞと言われた時は小さくて。
学校はどの辺だったんですか?≫

「和光三中です。」

≪イヤイヤそうじゃなくて何年生ぐらいだったんですか?≫

「中2です。」

≪でも弟さんもいらして弟さんは小さかったんでしょう?≫

「小学校5年生ぐらいです。」

≪いきなり日本に行く事になってあなたはアメリカのお友達と別れて。≫

「そうです。辛かったです。」

≪そうなんですって。ずっと泣いて飛行機の中でも泣いてたんですって?≫

「本当に突然だったんでバイバイもちゃんと言えなかったんで。」

≪で、お父様が行くぞっていう事になって日本の学校に編入して、
全然日本語出来ないんでしょ?≫

「そうです。」

≪あなたは日本語も出来ないから嫌だなって思ってたんですけども、
弟さんは小さいからすぐに馴染んだんですって?≫

「小学生は英語を習っていないからみんな日本語で「あそぼうよ」とか、
「僕の名前は何々」とか言うじゃないですか。
でも中学生は(英語を習っているから)「My Name is」とか、「This is a pen」
とか言うじゃないですか。だからみんな鈴ちゃんに試すんですよ。
「This is a pen」とか言ってきて、
「(困った感じの口調で)分かってるー」みたいな。(黒柳笑)
「This is a pen(これはペンです)」と何回も言われても
それ以上答え様が無くて困った。」

≪「This is a pen」って言われても。(笑)≫

「分かてるんですけども。」

≪弟さんの場合は向こうは日本語で言うしかないし、
どんどん日本語に馴染んでいくけど
あなたは「What your name?」と言ってくる訳?大変ですね。≫

「大変ですよ。しかも教科書風に言わないと向こうは分からないんで、
「(日本語発音で)マイネイムイズ」みたいな。」

≪それもあなたには良くは分からなかったでしょうね。≫

「分からなかったですね。」

≪英語というものは切れ切れに言うものじゃなくて、
ズルズルズルとくっついて言うのが正しいんですって。≫

「そうです。」

≪私向こうに行った時にスピーチ習いに行った時に言われました。
どうも東洋人は語尾を切ると。言う時は続けて言って下さいって。≫

「そうそうそう。」

≪随分いじめにも遭ったんですって。≫

「そうですね。見た目が外国風なんで目が大きくて。
まばたきしてみろよとか言われたりして。
頭にきて英語でバカーみたいな事言ったら向こうへ行っちゃたんですけども。」

≪それでいじめられる子はどうしたらいいかって。
自分で対処したんですって?≫

「そういじめる方も悪いと思うんですけども、
いじめる方もすごい自分に自身が無いと思うんですよ。
何かひとつだけ出来たら全然いじめられないと思うんですよ。
勉強出来たら「あの子頭良いよね」とか、スポーツ出来たら「あの子凄いよね」
とか、言われるじゃないですか。」

≪あなたは何を?≫

「鈴ちゃんは明るく行こうと思って日本語覚えたのを全部喋って、
毎日明るくしたら人が集まってきて友達もすぐに出来ましたね。」

≪ちょっとやったら変わるものですね。≫

「そうこんなに変わるもんだねって。」

≪でも自分から明るくして行くっていうのは大変だったでしょ?≫

「はい。でもいいやってやっちゃえって。」

≪でも話し掛けても相手が話し掛けてくれなくて、随分待って、
「話し掛けてくれるかな」って。そこの所は随分待ったんですって?≫

「そうなかなか話し掛けてくれなくて。でもその間に自分を変えなくちゃと思って、
眼鏡だったのをコンタクトレンズにかえて。」

≪眼鏡だったの。≫

「歯の矯正もしてたのをとって。」

≪あの頃はまだ日本の子は歯の矯正なんかしてないから
何でハリガネ見たいのを入れてんだって。≫

「言われたり。取ったらまた明るくなって、バーッと行ったら来ましたね。」

≪いじめられてる人には自分の方からある程度行かないとダメっていうのが
あなたの(アドバイス)。≫

「うん。自信を持って下さい。」

≪でも明るく話し掛けても全員がすぐに話し掛けてくれた訳じゃないでしょ?≫

「でも毎日毎日話し掛けないと。」

≪相当がんばらないとね。≫

「がんばりましたね。」

≪今伺ってるだけでも涙が出そうになって、相当涙ぐましいんですけども、
それをやる事によって、(中学を卒業して)次の高校に行った時は。≫

「もうファーーって。本当に楽しかったですよ。」

≪修学旅行も行ったんですってね。≫

「中学は京都に(行きました)。高校は北海道に行きました。」

≪アメリカでは中学の時とかは校則は無かったんですって?≫

「無いんです。自由で。
ご飯食べる時もカフェテリアなんで自由に自分の好きな物を食べれるんで。」

≪あと頭の髪を縛るゴムは何色って決まってる。≫

「ああ!あれは何でなんですかね?」

≪それは目立たない様にじゃないですかね。≫

「そうなんですか。」

≪ゴムは黒に決まっていた。それとブルマも嫌だった。≫

「ブルマは嫌ですよ。パンツと変わらないじゃないですか。
あれは恥ずかしかったですよ。」

≪アメリカはブルマ見たいのは履かないの?≫

「ないです。自分の普段着に着替えて。」

≪自分の持ってきた短パンに着替えて。
私なんかもそうだったんですけどもスカートのヒダが幾つってすっかり
決まってんですよ。それをちょっとでも多くしたいと思うのね。
別に多くしたから良い訳じゃないんだけど。≫

「フフ(笑)」

≪スカートの丈も決まってたでしょ?≫

「決まってました。」

≪靴下も黒で長さは、とか決まってて。≫

「はい。靴下も黒で凄く短い。凄く短い。」

≪校則が馴染めなかった。≫

「苦手でしたね。」

≪そうですか。でも今は慣れてテレビや何かでは活躍されていて。
でもそこまで来るのが大変でしたね。
今振り返ってみてどうでしたか中学高校時代は?≫

「中学は慣れなかった事が一杯有ったんですけども、
高校は本当に明るく楽しく出来たんで本当に良かった。」

≪自分で明るくした事が良かったですね。≫

「それが良かったですね変身した事。」

≪高校の時は言葉はもう出来て。≫

「中学3年の時に言葉は出来てたんで。」

≪私凄いなと思うのは、
英語の訛りの無いお友達と話している様な日本語ですものね。≫

「でもたまに変になったりしますよ。マネージャーさんにそれ違うよとか。」

≪鈴ちゃんのファッションですけども、ファッションには関心があるでしょ。≫

「大好きです。」

≪若い人は鈴ちゃんは何を着るんだろうって
とても関心持ってるそうですけども。≫

「そうなんですか?」

≪そうなんですよ。モデルをやってらっしゃるんですけども原宿とか歩いてると
一日で何枚も名刺が集まっちゃうんですって?≫

「たまにゲームみたいに友達と今日は何枚貰えるのかなって言って。」

≪凄いわね。≫

「その時はちょっと調子に乗ってましたね。(笑)」

≪これだけ可愛らしいとそうだと思うんですけどもね。
スカウトの人から名刺を貰うと家に帰って今日は何枚名刺貰ったって。≫

「その中でちょっと気に入ったのがあると面接受けに行ってたり
してたんですけども、
鈴ちゃんのやりたい事全然聞いてくれなかったんでダメだって思って。」

≪そういうのアメリカでお育ちという事もあるんですけども、
全部自分で決めて自分で選んで。
それでモデルをやって雑誌の表紙なんかに出たりしてとっても可愛いんですよ。
“裏原宿スタイル”というのが当時新しくて。≫

(雑誌登場)

「これは事務所に入る前なんですよ。」

≪次に“QUES”という雑誌の表紙になってこれは事務所に入ってから。≫

「いや入る前ですね。
これも知り合いのカメラマンに撮って戴いて只の作品だったんですけども、
そのカメラマンがどっかの雑誌に持って行ったら、使って戴いて。
でもその頃は事務所に入っていて。
よく分からないんですけども昔の写真を最近使ったんですよ。」

≪目標は女優さんだったんですって?≫

「“マイガール”という映画を見てちょうど同じ歳の子供達が出てたんで
羨ましくて、この人達が出来るんだったら鈴ちゃん出来るでしょって思って。
高校の時にこういうお仕事をし始めたんで諦めずにやってみようかなって。」

≪本当に可愛らしいから何でも言えばやってくれるかと思えばとんでもない。
あなたはこれがやりたい、これは嫌、とはっきりしてらっしゃるから。≫

「はい。」

≪今の事務所に入るまでに随分色々な所の面接を受けて
ここは確実という所を自分で探して。≫

「そうです。」

≪自分のやりたい仕事をやってくれそうだと思って。≫

「そうです。履歴書送って。」

≪やっぱり不安は有ったでしょ?≫

「ありますね。」

≪今度曲をお出しになるそうで。私はビデオ見てないんですけども、
バンドを作ったそうで。歌も歌いたかったの?≫

「はい。音楽が大好きなんですよ。」




・清水かつら

童謡「雀の学校」「叱られて」「靴が鳴る」「緑のそよ風」などの童謡の詩を
作詞した、詩人・童謡詩人の清水かつらさんは和光市に住まわれていました。

<略歴>
本名は清水桂。
1898年(明治31年)に東京市深川区(現在の東京都江東区深川)に
生まれる。
4歳で生母と父が離縁。12歳の時に
埼玉県北足立郡新倉村(現在の埼玉県和光市新倉)出身の継母を迎え、
東京市本郷区(現在の東京都文京区本郷)に住み、父と継母に育てられた。

予科修了後、青年会館英語学校に進学し、
1916年(大正5年)、出版社の中西屋書店出版部へ入社。
中西屋書店は少年・少女向けの雑誌を刊行する為、小学新報社を創設し、
かつらは少女雑誌「少女号」や「幼女号」、「小学画報」を編集した。
編集の傍ら童謡の作詞を始め、この間、
「靴が鳴る」「叱られて」「あした」「雀の学校」などの作品を発表。

1923年(大正12年)の関東大震災により、継母の出身地の
埼玉県北足立郡新倉村(現在の埼玉県和光市新倉)に移り、
ここで生涯を送った。
後に新倉村から白子村へ転居。
白子村に住み、東上線の成増駅から出版社やレコード会社へ通勤していた。

戦後の1946年(昭和21年)には「緑のそよ風」を発表。
同曲は戦後の新時代を象徴する明るい曲として人気を博した。

1951年(昭和26年)7月4日に、
「酒が飲めなくなったら終りだ」とつぶやいて、享年53歳で永眠。
墓所は文京区本駒込の吉祥寺。


現在、和光市内には和光市駅南口駅前広場にある
清水かつら記念碑をはじめ、数々の清水かつらさんに縁があった場所
プレートや記念碑が立てられています。


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成増出身・ゆかりのある芸能・有名人

・蛭子能収(えびす よしかず)

漫画家の蛭子能収さんは以前、成増に住まわれていました。

1970年、蛭子さんが23歳で故郷の長崎を少しずつ貯めた7〜8万円を持って
飛び出し上京した時に、初めて住んだ街が成増だったそうです。
成増には3ヶ月程住まわれていたとのこと。

「成増では友人の4畳半一間、風呂無しトイレ共同のアパートに居候をして
暮らし、戸田競艇場での競艇と成増の商店街にあるパチンコ店でのパチンコに
明け暮れてわずか1週間でなけなしの8万円をすってしまい、仕方なく
1日の日給が700円の測量の棒持ちのアルバイトを始めたんです。」

と、蛭子さんは夕刊紙のインタビューで以前に話されていました。

他にも蛭子さんは以前、ご自身の思い出の地を巡るTV番組に出演された時に
成増を訪れ、通っていた定食屋さんやパチンコ店などを巡り、

「当時は、パチンコで勝てば、パチンコ屋の隣の定食屋でおかずを一品多く
頼むことが出来て、出ない時はスーパーで袋のインスタントラーメンを
買って帰ってました。」

「成増から出ている無料送迎バスで戸田競艇場によく通った。」

と話されていました。

2013年にはTV番組『ぴったんこカン・カン』で再び成増を訪れ、
蛭子さんが成増で暮らしていた当時通っていた成増の定食屋 やまだやで
しょうが焼き定食を注文していました。

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番組内で蛭子さんは、

「(戸田)競艇や(成増の)パチンコ屋で勝った時は、
定食屋(やまだや)でちゃんとした晩飯を食べていたんですけど、
負けた時はほぼアンパンとコーヒー牛乳でしたね。」

そして当時煮物を注文して食べていた蛭子さんの顔を覚えている、と言う
やまだやのおかみさんに対し、

「俺、煮物をあんまり食べた事無いんですよね。
他の、(やまだやに来ていた)貧乏な若者と間違っているかも・・・」

等、当時の思い出を語ってらっしゃいました。

『2013年8月16日 ぴったんこカン・カン
(蛭子さんが成増を訪れる部分のみ)』
(成増を訪れる蛭子さんは2:45頃から。)


住まわれていた期間は3ヶ月程だった蛭子さんですが、
今でも蛭子さんにとって成増は思い出の街だそうです。

「最初に来た東京(の街)だったから、何となく、凄い親しみが有りますよ。」

と番組内で語られていました。




・美咲華菜(みざき かな)<不確定>

元女子プロレスラー(JWP)の美咲華菜さんは、
成増に程近い練馬区の旭町で居酒屋を営んでいらっしゃいるそうです。




・ぶるうたす

筋肉漫談で一世を風靡したお笑い芸人のぶるうたすさんは、成増出身です。
成増旭町の居酒屋スナック「宴」というお店の常連さんだそうです。
現在は和光市に在住とのこと。




・町田康(まちだ こう)

芥川賞作家の町田康さんは大阪から上京後、成増に住まわれていました。

町田さんのエッセイなどでも
「邪悪の木」(成増駅北口菅原神社境内にある銀杏の木)
「黒い大仏さま」(東京大仏)
といった成増にゆかりのある作品が多数見受けられます。

ちなみに、上記、成増在住時代の町田康さんの作品は「つるつるの壺」に
収録されています。

つるつるの壺
amazon.co.jp




・坂上二郎

コメディアンの故・坂上二郎さんは、2005年に栃木県那須に転居されるまで、
35年間練馬区の土支田に住まわれていました。

土支田は東上線成増駅から程近いという事も有り、坂上さんが生前、成増で
暮らされていた時には成増駅周辺のお店にも足繁く通われていたそうです。
小島米店、焼肉明洞、Japanese 炭火焼BAR 雅、
などのお店に特に通われていたとのこと。

上記の成増に在るお店については、坂上さんが生前に『ウチくる!?』に
出演された際に上記のお店を行きつけのお店として紹介していました。
小島米店のおにぎりは坂上さんが生前『はなまるマーケット』に出演された時に
おめざとしても紹介していました。

(『ウチくる!?』では焼肉明洞のご主人が2001年の狂牛病・BSE問題の時に
経営不振となり焼肉店をやめる決断をしかけていた時に坂上さんから、
「日本人は良くも悪くも忘れる民族だから、この狂牛病やBSE問題も
いつか忘れてしまう時が来て必ず収まるから絶対に店は続けた方が良い。
これだけ美味しいんだから大丈夫。続けなさい。」
とアドバイスを貰い店を存続させていく事を決めた、とインタビューで
語られていました。この事は坂上さんが亡くなられた際にお店のご主人が
インタビューを受けた時にも、ご主人の口からまた語られていました。)


焼肉明洞には坂上さんとコント55号で相方だった萩本欽一さんも
2012年にTV番組で訪れていました。

『2012年5月19日 欽ちゃんの『ありがとう二郎さん』ツアー』
(成増の焼肉明洞を訪れる萩本さんは26:35頃から。)



上記の番組の中で語られた、坂上さんと萩本さんのコンビ、
コント55号のエピソードとして、コンビの決め事の一つに
「一緒に食事を食べない」という決め事があったそうです。

(コンビ仲が悪くならない為に、お互いに「食事を一緒にするのはよそうね」と
決めていたとのこと。)
(「お互いの事を知れば知るほどコンビ仲が悪くなる」との考えが
2人共一致した為、コント55号は食事はおろか、2人一緒にお茶も飲まない、
会話しない、夢を語らない、と決めていたそうです。)

しかし過去に一度だけ萩本さんが50歳の時に坂上さんと萩本さんが
食事を一緒に食べた事があり、
その日坂上さんは帰宅した後に、萩本さんと食事を一緒に食べた事を
とても嬉しそうな顔で奥様に話されていたそうです。

そしてその後2003年9月に坂上さんが脳梗塞で倒れた後、
療養していた時(冬の季節の時期)に、
その事(萩本さんと食事をした日の坂上さんの顔がとても嬉しそうだった事)を
覚えていた坂上さんの奥様が萩本さんに電話をかけ、

「欽ちゃん、もう一度ご飯を(二郎さんと)食べてくれません?」
とお願いをした事があったそうですが、

(“(相方が病気で倒れた後に相方の奥様からお願いされて)食事をする
というのは(お互いに)芸人として粋≠ナはない。”との考えから、)

「僕は二郎さんとは食事しません。」と答え、そしてその言葉の後に続けて、

豊島園の前で待っている。
観覧車に乗ろう。


と電話の向こうの二郎さんに言ったそうです。
しかし坂上さんは萩本さんのその誘いに対して、

寒いから行かない。

と答えたとのこと。

(ちなみに坂上さんが住まわれていた東京都練馬区土支田から
東京都練馬区向原にあるとしまえん遊園地までは直線距離で4km程。)

そして坂上さんが2010年8月に2度目の脳梗塞で倒れ、
身体を動かす事が出来なくなり入院を余儀なくされていた時の
2011年2月(坂上さんが亡くなられる一月前)には、
坂上さんの奥様が再び萩本さんに電話をかけ、

「欽ちゃんと一度だけ食べた楽しい食事、
それをずーっと(二郎さんは)語ってた。
だから一緒にまた(二郎さんと)ご飯を食べて。
二郎さん元気になるかも知れないから。」

とお願いをし、その時は萩本さんはすぐに
坂上さんが入院している栃木県那須塩原市内の病院に行き、
ベッドで寝ている坂上さんに、

二郎さん。飯食いに行こう。

と話しかけたそうです。
すると坂上さんは2度目の脳梗塞で全く身体が動かせない状態に
なっていたにもかかわらず、

おっ! 行くよ!

と言って立ち上がろうとしたとのこと。

このエピソードは
『2012年5月19日 欽ちゃんの『ありがとう二郎さん』ツアー』の番組の中と
(上記エピソードを話す萩本さんは上の番組の動画の20:50頃から。)、
2013年7月に萩本さんが出演されたTBSのラジオ番組『たまむすび』の
番組の中で萩本さんがご自身で語られていました。

『2013年7月19日 たまむすび
(坂上さんとの食事についてのエピソードを話す萩本さんの部分のみ)』



他にも、坂上さんが生前に出演された2005年前後のTV番組においては、
坂上さんが常連として通っていた成増の焼き鳥居酒屋
(上記のJapanese 炭火焼BAR 雅とは別の店)では、

坂上さんは夕方過ぎから来店して飲み始め、
そして閉店時間になる頃には寝てしまう、というエピソードを
店のご主人と坂上さん、そして坂上さんの次女の亜樹さんの3人で
話されていました。

坂上さんが閉店時間を過ぎて寝ている場合は起こさずに
そのまま店の座敷に寝かせて泊まらせてあげて、
翌日のお昼頃に起きた坂上さんに店のご主人がお昼ご飯を作ってあげて、
坂上さんはそのお昼ご飯を食べた後は店の上にある
ご主人のご自宅のお風呂に入らせて貰い、
そしてまた昼寝をして、開店時間の夕方頃にまた起き出して飲み始める、
という事もあったそうです。

いつもその様な調子で帰りが遅くなり、時には店に泊まってしまうお父様を
次女の亜樹さんはよく迎えに行かれていたとのこと。

この焼き鳥居酒屋のご主人の御一家と坂上さん御一家は
家族ぐるみのお付き合いがあったそうです。


土支田・成増が地元だった坂上さんはかつてコント55号のコントの中で
自分の役名を、

「上板橋成増」、「下板橋某」、

と名付けたりもしていました。


練馬の土支田に住まわれていた坂上さんについては、
石橋貴明さんが以前ラジオ番組の中で、

「ウチのスタッフがね、練馬の高松ってトコに住んでんですけど、
成増の近所なんですよね。
ほんで、練馬って坂上二郎さんが、土支田ってまた近い所に
住んでんですけど、土支田ってのがまた成増の裏っ側で近いんですよ。
本当にね、あそこら辺練馬成増辺りは何か住む人間に特色があるっつーか、
なんつーか「集まっちゃった」みたいな感じのトコなんですけどね。(笑)
またよりにもよって。(笑) という。」

と、話されていました。


<略歴>
1934年(昭和9年)、鹿児島県鹿児島市生まれ。
中学卒業後、鹿児島市内の百貨店に就職。53年にNHK『のど自慢』で
鹿児島県代表に選ばれ優勝したのを機に、歌手を目指し上京。
歌手の青木光一の付き人になり、
青木光一や島倉千代子の歌謡ショーで漫才や専属司会者を務めた。
島倉千代子の専属司会者を経て、獅子てんや・瀬戸わんや門下に入り
漫才コンビ「内藤ロック・安藤ロール」を結成。
解散後、「安藤ロール」の名前でストリップ劇場の浅草フランス座の
コメディアンになり、ここで萩本欽一と知り合い、
ストリップの合間に演じる幕間コントで共演。
66年にコント55号を結成。
TVカメラが追い付かない程縦横無尽に激しく動き回るコントで人気を博した。
69年に始まった『コント55号の裏番組をブッ飛ばせ!』では、
じゃんけんで負けると服を脱ぐ「野球拳」で人気を集めた。
服を脱ぐ罰ゲーム方式の野球拳を全国的に広めたのはコント55号と
言われている。
(このお色気方式の野球拳は番組側からの意向でやらされていた側面が強く、
本来の野球拳と違う方式を広めてしまった事を長い間気にしていた萩本欽一は
2005年に愛媛県松山市を訪問し本家野球拳の四代目家元に謝罪している)
70年代からは俳優としても活躍。
クイズ番組『ぴったしカン・カン』にも長く出演。
プライベートでは58年に結婚。娘の坂上亜樹は80年代に女優として活動し、
『スクール☆ウォーズ』など主に大映テレビのドラマ作品に出演。
味のある脇役を演じる女優として大映ドラマファンから高い評価を受けた。
1989年には当時大人気バンドだったユニコーンとコラボレーションし、
「坂上二郎とユニコーン」名義でシングル曲「デーゲーム」を発表。
ボーカルを担当し、往年のお笑い界の大御所と当時の人気バンドとの共演は
話題となった。

その後も時代劇や刑事物のドラマに出演し名脇役として活動を続けていたが、
2003年9月にゴルフのプレイ中に脳梗塞で倒れ病院に搬送。
同伴競技者に医師が居てすぐに適切な応急処置を施され搬送されたため
命には別状は無かったが、脳梗塞による言語障害などが残り、
必死のリハビリで2004年6月に復帰した。
晩年は芸能人養成学校「キャメルアカデミー」を練馬区平和台に開校。
2005年放送の『ウチくる!?』内では同校を紹介すると共に後進への思いを
語っていた。

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(上:坂上さんが晩年、東京メトロ有楽町線平和台駅そばのビル内に開校した
「キャメルアカデミー」のポスターと看板。)

2005年6月には所属事務所の浅井企画が栃木県那須塩原市に開校した
お笑い芸人の育成学校「那須お笑い学校」の名誉校長に就任。
後進の育成に努めた。
2006年、生まれ故郷の鹿児島県で結成された社会人野球チーム
鹿児島ホワイトウェーブの総監督に就任。
背番号は茨城ゴールデンゴールズの萩本欽一と同じ55だった。
その後もTV番組などに出演し芸能活動を続けていた中の
2010年8月13日に自宅の台所で再び脳梗塞で倒れ頭を強打、
病院に搬送されるも手足を動かせない状態になり入院を余儀無くされる。
入院後もセリフの吹き込みを行い声だけの活動を続けていたが、
2011年3月10日、入院中の栃木県内の病院にて脳梗塞により死去。
享年76歳。

訃報を受けて萩本欽一は

「コント55号は最高だった。二郎さんのおかげで楽しい笑い人生になった。
坂上二郎を忘れません。」

と涙ぐみながらコメントを発表し、長年の相方を偲んだ。




・松尾スズキ

俳優、演出家、脚本家、作家など多才でマルチな活動をされている
松尾スズキさんは、故郷の福岡県から上京して初めて住まわれた場所が
成増でした。

成増で暮らした期間は1年ほどだったそうです。
池袋の東急ハンズなどに足繁く通われていたとのこと。

(情報提供 おへんろさん ありがとうございました)




・瀬尾公治(せお こうじ)

成増・光が丘周辺を舞台にした漫画、「涼風」(すずか)の作者で
漫画家の瀬尾公治さんはご出身の広島県より上京後、
20歳の時(1995年)から7年間成増に住まわれていました。

「涼風」は週刊少年マガジンで2004年に連載を開始、
2007年の連載終了まで青少年を中心に人気を博し、
テレビ東京系列でアニメ化もされました。

作品では、成増や光が丘の風景が頻繁に登場します。

成増駅南口の時計やロータリー、
成増駅南口のスキップ村商店街、
練馬区旭町の出世稲荷神社、
練馬区旭町のコンビニ・デイリーヤマザキ、
練馬区光が丘の光が丘公園、

これらの場所がただ風景として描かれるだけではなく、
物語の中でストーリーに関係してくる所が作品の特徴になっています。

「涼風」ファンの間では“聖地巡礼”として成増を訪れ、
作品にゆかりのある成増のスポットを巡ったり、
作品中に登場する食べ物であるデイリーヤマザキの肉じゃがコロッケを
食べたり、成増の出世稲荷神社に参詣したりなどする人も多いそうです。

「涼風」に登場する成増の風景についてはこちら、
夏の缶詰さんのHPで詳しくレポートされています。

(参照リンク)
涼風と大和の住む街@野外録音「夏の缶詰」ホームページ
涼風地図

涼風
rakuten.co.jp

また、2008年から週刊少年マガジンで連載中の「君のいる町」も
成増が作品の舞台になっています。

「君のいる町」は2013年7月からテレビ東京系列でアニメが放送を
開始する事に合わせ「君のいる町」特製垂れ幕が、作品の舞台の成増に在る
なりますスキップ村商店街に2013年5月25日よりお目見えしました。

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作者の瀬尾さんはこのスキップ村商店街の特製垂れ幕について
ご自身のツイッターで、

「瀬尾公治 @seokouji

RT> 忙しくてウチから一歩も出ることができない哀れな漫画家に、
明日以降スキップ村の写真をアップしてくれる優しい人はおらんかのぅ
[電柱]д ̄) チラッ」

(2013年5月24日のツイート)

「瀬尾公治 @seokouji

ち、ちょっと画材を買いに行ってこようかなぁ。
成増スキップ村商店街にしか売っていない、あの伝説のGペンを。」

(2013年5月24日のツイート)
(スキップ村商店街の特製垂れ幕を見に行きたい為に、
“伝説のGペン”を買いに行くという後付けした理由を
つぶやいていらっしゃいました)

「瀬尾公治 @seokouji

@anime_kimimachi アシスタントさんに怒られました。。作家なのに。。
近々必ず行きます!!」

(2013年5月24日のツイート)

と、ツイートされていました。

『「君のいる町」成増 紹介映像』


また、2013年7月6日(土)から2013年8月31日(日)までの期間には
「君のいる町」TVアニメ放送開始を記念した
東武鉄道によるスタンプラリーが開催されました。

スタンプ設置場所は
(1)東武東上線池袋駅(南口改札付近)(2)東武東上線成増駅
(3)なりますスキップ村特設スタンプ台(ちよだ鮨横)
(4)なりますスキップ村ダイエー成増店(1F特設スタンプ台)の計4か所でした。
このスタンプラリーは、「君のいる町」作品中にリアルに描かれた「成増」へ
多くの人に来て貰い、アニメの世界観を感じながら散策を楽しんで貰う事を
目的に東武鉄道が開催したもので、池袋駅、成増駅のスタンプ2個と
商店街2か所のうち少なくとも1か所のスタンプ1個の合計3個以上を集めると、
同アニメの特製クリアファイルをプレゼントしてくれる
スタンプラリーとなっていました。

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(上:成増駅南口入口に掲示された「君のいる町」主人公の
“枝葉柚希”と“桐島青大”のパネル。)

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(上:成増駅構内に掲示された「君のいる町」登場人物のポスター。)

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君のいる町
rakuten.co.jp


「君のいる町」に登場する成増の風景についてはこちら、
舞台探訪総研さんのHPで詳しくレポートされています。

(参照リンク)
TVアニメ『君のいる町』舞台探訪(聖地巡礼)@成増




・大江千里(おおえ せんり)

歌手の大江千里さんは大阪府出身ですが、出生地は成増です。

1963年東京都板橋区成増生まれ。

成増で産まれ、生後間もなく大阪府に移り住んだそうです。




・一青窈(ひとと よう)

台湾出身の歌手、一青窈さんは台湾の幼稚園を卒業後日本に移住し、
一時、成増に住まわれていました。

一青さんはお父様が台湾人で、お母様が石川県出身の日本人だそうです。

TV番組『ザ・プラチナチケット』という番組では、
現在も成増に住んでいる叔母の家を訪ね、
成増で暮らしていた頃の話や今は亡き一青さんのお母様の思い出を語り、
涙していました。




・ゆでたまご:(・嶋田隆司・中井義則)

漫画「キン肉マン」で一世を風靡した漫画家、ゆでたまごのお2人は、
上京して最初に暮らした街が成増でした。

お2人共大阪府出身。
昭和54年5月、週間少年ジャンプにて「キン肉マン」の連載が開始され、
初めの1年間は先に中井さんが昭和53年に成増に上京、
嶋田さんは大阪に残り執筆、というシステムで描かれていたそうです。
そして、1年後の昭和54年に嶋田さんも成増に上京。
共に成増の風呂無し、共同トイレの4畳半の安アパートにて
キン肉マンを描いていたとのこと。

内容的には、主に
「キン肉マン アメリカ・ハワイ遠征編(第52話〜第79話)」とその前後が、
成増に居た時に描かれた作品だそうです。

成増の4畳半のアパートでは、「羽アリに悩まされた。」と以前にインタビューで語っていらっしゃいました。

インタビューでは他にも、

「人気が出始めたから東京に上京して仕事場を移したのに、
アメリカ・ハワイ遠征編は読者にウケが悪く、
もの凄く精神的に追い込まれた時期だった。」 

とお2人は語っていらっしゃいました。

嶋田さんはツイッターでも、

「ゆでたまご嶋田 @yude_shimada

ゆでたまご東京の足跡も見てもらいたいけど。
中井くんと二人でいた成増の下宿(今はもう無い)
集英社執筆室(これも無い)
三田線蓮根駅近くのクリーニング屋二階(これは残ってる)」

(2011年1月21日のツイート)

「ゆでたまご嶋田 @yude_shimada

今日は七夕か…ちょうど32年前の今日 私は大阪から上京してきたんだよな。
板橋区成増の家賃14,000円の風呂なし下宿。」

(2011年7月7日のツイート)

「ゆでたまご嶋田 @yude_shimada

上京の時は前もって送ったのは小1から使ってた勉強机ひとつと
洋服の入ったケース、寝具一式。
その日はハダカ電球の照明の下ボ〜としてた。
扇風機も無く暑いので窓開けてたらいろんな虫の総攻撃受けた。」

(2011年7月7日のツイート)

「ゆでたまご嶋田 @yude_shimada

成増の駅から20分くらい歩く畑や果樹園があるようなところだったからね

RT @honezamurai: @yude_shimada 東京にも虫いるんですね(笑)」

(2011年7月8日のリツイート)

「ゆでたまご嶋田 @yude_shimada

32年前上京した年の夏も暑かったけど エアコン、扇風機無しで
仕事してたな…
窓は開けっ放しで簾だけかけて 汗かきかきアメリカ編あたり描いてた。」

(2011年7月8日のツイート)

「ゆでたまご嶋田 @yude_shimada

行きます!自分のルーツ探しに

RT @Keigrant: @yude_shimadaせんせー!成増まで来たら串揚げ
ごちそうしますってば!!」

(2011年7月8日のリツイート)
(同じ東武東上線沿線下赤塚出身在住のラジオDJ、
ケイ・グラントさんへのリツイート)

等、成増で暮らされていた当時の事をつぶやかれていました。




・平山郁夫(ひらやま いくお)

名実ともに日本画壇における最高峰の日本画家として著名である画家の
故・平山郁夫さんは、かつてご一家で成増に住まわれていました。

<略歴>
1930年 広島県に生まれる。
1947年 東京美術学校日本画予科に入学。
1952年 東京美術学校日本画科を卒業。
東京芸術大学美術学部日本画科副手となる。前田青邨に師事。
1953年 第38回院展に初入選。東京芸術大学日本画科助手となる。
1954年 第9回春の院展で初の奨励賞受賞。(以後2回受賞)
1955年 日本美術院院友に推挙される。
1959年 原爆の後遺症で制作面でも行き詰まっていたが、
第44回院展に「仏教伝来」を出品し、制作上の転機となる。
同年、板橋区双葉から板橋区成増に転居。
1960年 第45回院展に「天山南路(夜)」を出品。
仏伝シリーズの制作をはじめる。
1961年 第46回院展の「入湟槃幻想」で日本美術院賞受賞。
東京国立近代美術館買い上げ。日本美術院特待に推挙される。
1962年 第47回院展の「受胎霊夢」で日本美術院賞受賞。
第1回ユネスコ・フェロープによリヨーロッパヘ留学。
1963年 第48回院展の「建立金剛心図」で
奨励賞(白寿賞・G賞)受賞。
1964年 日本美術院同人に推挙される。
第49回院展の「仏説長阿含経巻五」「続深海曼茶羅」で文部大臣賞受賞。
東京芸術大学美術学部日本画科講師となる。
1966年 東京芸術大学中世オリエント遺跡学術調査団に参加し
トルコヘ。イヒララ渓谷の中世キリスト教寺院、修道院の壁画模写に従事。
1967年 法隆寺金堂壁画再現事業に携わる。
1968年 中央アジアを旅行。
仏教伝来の源流を訪ね、この旅行がシルクロードに情熱を傾ける発端となる。
1969年 東京芸術大学助教授となる。
1970年 日本美術院評議員に推挙される。
1972年 8月鎌倉市二階堂に転居。
1973年 東京芸術大学教授となる。高松塚古墳壁画の現状模写に従事。
東京芸術大学イタリア初期ルネッサンス壁画調査団に参加。
1975年 日本美術家代表団の一員として初めて訪中。
1976年 第8回日本芸術大賞を受賞。
イラン・イラク・シリア・エジプト・トルコにて平山郁夫日本画展開催。
1977年 第11回仏教伝道文化賞を受賞する。
1978年 第63回院展「面禅院青邨先生還浄図」で内閣総理大臣賞受賞。
1979年 アテネ・北京・広州にて平山郁夫日本画展開催。
中国スケッチ旅行で初めて敦煌を訪れる。
1980年 奈良薬師寺玄奘三蔵院の壁画制作に取り組む。
1981年 日本美術院理事となる。
1983年 第1回東京芸術大学敦煌学術調査隊に参加。
1984年 外務省日本中国文化促進代表団に参加。
薬師寺玄奘三蔵院の壁画制作に着手
1985年 北京中央工芸美術学院外国人名誉教授となる。
第2回東京芸術大学敦煌学術調査隊に参加。
1986年 NHK「大黄河展」取材のため中国旅行。
1987年 第3回東京芸術大学敦煌学術調査団に団長として参加。
1988年 東京芸術大学学術部長となる。
ユネスコ親善大使に任命される。文化財保護振興財団が発足。理事に就任。
1989年 日本楼蘭学術文化訪問団団長として楼蘭遺跡を訪問。
東京芸術大学第6代学長となる。
1990年 ポロブドゥール遺跡と海のシルクロード取材のため、インドネシアヘ。
1991年 フランス国立ギメ東洋美術館で「平山郁夫シルクロード展」開催。
フランス政府よりコマンドール勲章を授与される。
1992年 中国日中国交正常20周年会議に出席。
早稲田大学名誉博士となる。
1993年 アンコール遺跡救済特別企画「平山郁夫の眼と仕事」を開催。
1994年 黒部峡谷を取材。宇奈月町制施行40周年記念特別講演を行う。
1995年 12月20日まで東京藝術大学学長を務める。
1996年 全国主要都市で「世界の文化遺産を描く-平山郁夫展」を開催。
日本育英会会長に就任。日本美術院理事長に就任。
1997年 故郷の広島県瀬戸田町に平山郁夫美術館が開館。
1998年 文化勲章を受章。広島県名誉県民、広島市名誉市民に顕彰される。
2000年 12月31日、構想以来約三十年をへて、
奈良薬師寺玄奘三蔵院《大唐西域壁画》が完成。
2001年 12月21日から再び東京藝術大学長に就任。
2004年 12月22日に大韓民国政府より
北朝鮮の高句麗古墳群のユネスコ世界文化遺産登録に寄与した功績で
修交勲章興仁章受章。
2005年 日韓友情年日本側実行委員長を務める。東京藝術大学学長を退官。
2009年 12月2日 脳梗塞により逝去。

日中友好協会会長
ユネスコ親善大使・世界文化遺産担当特別顧問
日本美術院理事長
独立行政法人国立文化財機構顧問

代表作に、仏教伝来に代表される仏伝シリーズ、
「平山芸術」と称されるシルクロードシリーズ、
古代幻想に着想した大和シリーズ、など。

作品価格は日本画家の中では飛びぬけて高い事で知られる。


平山さんは、成増には1959年(昭和34年)から1972年(昭和47年)まで
13年の間、ご一家で住まわれていました。

成増に家を建てる時の思いを生前、平山さんは
和歌山県知事の仁坂知事との対談でこう述べています。

平山画伯:
文部教官助手という肩書きになって、自分の研究実績が上らないと
いつ辞めさせられるかわからない。
これは薄氷の上を歩くような非常に厳しい環境です。
先生も、社会も、学生も、厳しい目で見ている。
死に物狂いになっても色んな要求が来るので、覚悟は決めて浪人になっても
勉強できる態勢だけは保っていたいと考えていました。
その点は貧乏長屋のようなアパート(中板橋(板橋区双葉)のアパート)に居て
家賃が安い上に、家内が中学の美術の先生をしながら少しずつ
貯金していってたんですよ。
私なんか、貯金の貯の字もありませんでしたけどね。
ある時、家内が「土地を買おう」と言い出して。
私は全然夢にも思わなかったんですがね。
助手をいつ辞めても慌てなくてもいいように、アトリエだけは作ろうと。

仁坂知事:
それが成増の(アトリエ)?

平山画伯:
そうです。アトリエを建てる事になって。棟上げには父に来てもらいました。
とても喜んで貰いました。
私が一人で居ると、貰った月給を飲んだり遊んだりするのに、
それをきちっと貯金をして。
まあ、山内一豊の妻じゃないが、貯金があると言われた時はびっくりしました。




・清水かつら

童謡「雀の学校」「叱られて」「靴が鳴る」「緑のそよ風」などの童謡の詩を
作詞した、詩人・童謡詩人の清水かつらさんは、和光市白子に住まわれ、
近所だった成増の商店街で買い物をしたり、
通勤に成増駅を利用されるなどしていました。

現在、成増には成増駅南口ロータリーにあるうたの時計塔をはじめ、
数々の清水かつらさんに縁があった場所にプレートや記念碑が
立てられています。




・阿部祐二

TVリポーターの阿部祐二さんは、以前成増で暮らされていました。
阿部さんは中板橋のご出身で、15歳までを中板橋で過ごされ、
高校生の時に成増に転居。
18歳まで成増に住まわれていたとのこと。

阿部さんは現在千葉県の浦安市にお住まいですが、
お子様の出産は下赤塚にある産婦人科の横田医院にお願いし、
横田医院で娘さんがお生まれになったそうです。




・宮前真樹

アイドルグループ「CoCo」の元メンバーで、
現在はタレントとして活動している宮前真樹さんは
「CoCo」として活動していたアイドル時代に成増に住まわれていました。

宮前さんは元々下赤塚のご出身(お生まれは新潟県十日町市)で、
後に同じ東武東上線沿線の上福岡にご家族で転居し暮らされていましたが、
アイドルとして活動していた時期に親元から独立して成増に引越し、
お一人で住まわれていたそうです。

宮前さんは、

「成増は初めての一人暮らしをした思い出の街だった。」

と、2001年放送の『出没!アド街ック天国』の「成増」の回に
ゲスト出演された時にご自身で話されていました。

その2001年放送の『出没!アド街ック天国』の「成増」の回では
宮前さんは他にも、成増のパスタ店 トラットリア イル ほうれんそう
(現在は閉店:工場のみ営業)で初デートした思い出なども語られていました。




・エスパー伊東

お笑い芸人のエスパー伊東さんは幼少時代成増に住まわれていました。

1960年熊本県阿蘇郡生まれ。

私立成増幼稚園卒園、
板橋区立成増小学校卒業。

高校は埼玉県立和光高等学校を卒業。

板橋区立成増小学校では成増出身で1961年生まれの石橋貴明さんが、
伊東さんの1つ下の学年にいらっしゃいました。

伊東さんはお生まれは熊本県阿蘇郡ですが、育ったのは東京都とのこと。
幼稚園時代と小学校時代を成増で過ごされたそうです。

「3、4歳の頃は川越街道沿いにある成増2丁目の森永乳業販売店で
暮らしていた。
その後、通っていた成増幼稚園に近い赤塚4丁目の森永乳業販売店に
転居した。」

「赤塚4丁目に引っ越した後、成増2丁目に住んでいた時に隣だった
ナショナル電器店の息子で友達の小倉君に会いたくなり、三輪車で
赤塚4丁目から成増2丁目に行く“大冒険”をした。」

「子供の頃、成増の田んぼで泥んこになってザリガニ捕りをしていた。」

等、伊東さんは以前ご自身のブログで語られていました。

(参照URL)
http://ameblo.jp/esper-ito/entry-11923230211.html
http://ameblo.jp/esper-ito/entry-11200725207.html


伊東さんは成人後は板橋区徳丸、板橋区東新町、板橋区志村坂上などに
住まわれており、その間には2012年には自宅マンションが空き巣被害、
2013年には以前伊東さんが住まわれていた板橋区内のマンションと
同じマンション内に住んでいた男から2年間に渡って金を脅し取られていた事が
明らかになるなど、数々の災難に遭われていますが、伊東さんは現在も
板橋区内に在住されています。
板橋区在住期間計18年間の内、板橋区内で6回転居されたそうです。
(2013年時点)

この事は伊東さんがご自身でブログ内にて話されていました。

(参照URL)
http://ameblo.jp/esper-ito/entry-11564663267.html


伊東さんは東武練馬に住まわれていた時、夜9時頃に東武練馬の踏み切りの
近くのコンビニに買い物に行った際に10人程の若い不良に絡まれた事が
あったそうです。

そしてコンビニ前の駐車場で「エスパー何か面白い事やれ」と不良に言われ、
仕方なく伊東さんは両手にコンビニの袋を持ったまま不良の前でギャグを
披露したとのこと。

そして翌日に当時まだ新宿区の曙橋に在ったフジテレビに収録に行き、
その収録でロンドンブーツ1号2号の田村淳さんと共演したそうですが、
田村さんは伊東さんの顔を見るなり
「ハハーッ(笑)、昨日エスパーさん不良らに絡まれていたでしょう。」
と言ってきたので伊東さんは
「あっちゃん、見てたなら助けてよ。」と返したそうです。

当時、田村さんは上京間も無い頃に一ヶ月程ですが東武練馬のアパートで
暮らしていた時期があり
、同時期に伊東さんも東武練馬に暮らしていた為に
この様なお二人の会話のやり取りが行われた、と
以前伊東さんはご自身のブログ内で話されていました。

(参照URL)
http://ameblo.jp/esper-ito/entry-11566287370.html


伊東さんはこれまでに計55回転居をされているそうで、
その中でも特に板橋区に18年間住み続けている理由をご自身のブログで、

「成増幼稚園・小学校出身。なので第2の故郷みたいなもの。」

「なんとなくこの地域に愛着があり、
東京都板橋区エスパー星を離れない理由でもある。」

と以前に語っていらっしゃいました。

(参照URL)
http://ameblo.jp/esper-ito/entry-11564713583.html




・弘兼憲史(ひろかね けんし)

「課長島耕作」「人間交差点」「黄昏流星群」などの作品で知られる
漫画家の弘兼憲史さんは以前、成増に住まわれていました。

1947年生まれ。山口県岩国市出身。

1966年早稲田大学法学部に合格し上京。上京の際は、
成増に耳鼻科(成増駅南口そばの成増耳鼻科:2013年12月に閉院)を開業し
経営していた叔父を頼って成増に住む。

大学卒業後の1970年に松下電器産業(現・パナソニック)に入社し
大阪の本社に3年ほど勤務した後、退社。
脱サラして上京し再び成増に在住。
仕事場も成増に置き、漫画の執筆活動を成増でされていました。

成増に在住していた当時・成増に仕事場を構えていた当時の
弘兼さんの作品の中では、成増や下赤塚の風景がそのまま描かれている
風景描写のコマが数多く有りました。
現在も弘兼さんの作品中には成増や下赤塚の風景が時折登場しています。

中でも1980年から1989年までヤングマガジンに連載していた
「ハロー張りネズミ」は
下赤塚を舞台にした作品で、特に多く成増や下赤塚の風景が作品の中に
登場しています。


成増に住まわれ仕事場も成増に在った1977年当時、
弘兼さんが漫画のアシスタントを探していた時に、新聞の
“家庭教師募集します。(お茶の水女子大学・大山寮)”
という家庭教師募集の求人欄を見て東上線の大山に在る大山寮に、
「漫画のアシスタントを探しているので漫研の子に繋いで下さい。」
と電話をして繋いでもらった学生が、当時お茶の水女子大学の学生で
大山のお茶の水女子大の学生寮に寄宿していた
柴門ふみさんだったそうです。

家庭教師募集の広告を見てお茶の水女子大の大山寮に電話をかけた理由は
弘兼さんが東上線の車内で以前、お茶の水女子大漫研発行の同人誌を
読んでいる女子大生(この方は柴門さんではなかったそうです。)を
見かけていてそれを覚えていた事が電話をかけるきっかけに
なったとのこと。

この事は弘兼さんの奥様の柴門ふみさんが以前、
女性漫画誌Kissの誌上インタビューにて話されていました。

成増に住まわれていた弘兼さんはその後練馬区の石神井に
転居されましたが、仕事場はそのまま成増に置かれ、
2000年代終わり頃まで成増の仕事場で執筆活動をされていたそうです。

弘兼さんは現在は吉祥寺に在住し仕事場もそちらに移されています。


posted by pokochi444 at 05:11 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする